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30年日本史00961【南北朝初期】脇屋義助の吉野入り

南北朝時代を連載中ですが、実は吉野に一度も行ったことがないんですよね。南朝の首都だった吉野も賀名生も金剛寺も観心寺も、一度は行ってみたいものです。

 話を常陸から近畿へと移します。
 脇屋義助は小黒山城を陥落させる軍功を挙げたものの、快進撃はそこまででした。興国元年/暦応3(1340)年9月13日には斯波高経率いる北朝軍に敗北し、越前から逃亡して美濃国根尾城(岐阜県本巣市)に移ることとなりましたが、翌興国2/暦応4(1341)年9月18日、そこにも北朝方の土岐頼遠とその甥・頼康(よりやす:1318~1388)の軍が押し寄せてきました。
 根尾城は落城し、義助は熱田神宮(名古屋市熱田区)を頼って尾張へと逃亡し、そこに10日あまり滞在した後、伊勢・伊賀を経て吉野へと向かいました。
 吉野で義助が後村上天皇に謁見すると、天皇は嬉しそうな顔で
「この5、6年の間の北国征伐の忠功は特に大きなものだ」
と義助を褒め、最近敗北が続いていることには全く触れませんでした。
 謁見の翌日、義助の位階が引き上げられ、家臣一同に恩賞が与えられました。
 これを聞いた洞院実世は、
「そもそも義助は越前の戦に負けて美濃へ逃げた。その美濃を再び追われて、身の置き所のないまま吉野へやって来たのを、帝がお褒めになって官位俸禄を与えたことは全く理解できない。これは平維盛が富士川において、水鳥の羽音に驚いて逃げてきたのに、なぜか一階級昇進したときと同じだ」
などと言って嘲笑しました。
 しかしこれを聞いていた四条隆資は、実世に猛反論します。
「この度の帝のなさりようは、道理にかなうものだと思います。昔から今日に至るまで、将軍を重んじてこそ、敵を滅ぼし国を治めることができるのです。大将の威厳が軽いと、兵達の心は勝手気ままになってしまいます。義助が勝利を得られなかったのは、戦いが下手だったからではなく、ただ帝のご沙汰の違いによるものです。帝は、畏れ多くもこのことをご存知だったので、この度、恩賞をお与えになったのです」
 つまり、戦功があろうがなかろうが、天皇が将軍を重用している姿勢を見せることが兵たちの士気を鼓舞するのだというわけです。これには実世も納得したのか、黙ってしまいました。
 このように義助が吉野に滞在しているところに、伊予国(愛媛県)から使者が来て、
「どうか急いでしかるべき大将を派遣してください」
との申し出が来ました。吉野の朝廷は、これに義助を派遣しようと決します。

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