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30年日本史00187【飛鳥】白村江の戦い

 唐・新羅連合軍と戦うに当たって、斉明天皇と中大兄皇子は自ら指揮をとるべく、北九州に本拠を構えることとしました。
 斉明天皇7(661)年。朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや:福岡県朝倉市)が建設され、斉明天皇はそこに遷りました。朝倉に向かう最中の1月14日、斉明天皇一行は熟田津(にきたつ)に立ち寄ります。現在の道後温泉(愛媛県松山市)に当たる場所です。同行していた歌人の額田王(ぬかたのおおきみ)は、
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
と詠みました。「熟田津から船に乗るために満ち潮を待っていたところ、満ち潮となった。さあ出発しよう」というだけの内容ですが、戦争を指揮するために出かけているのに温泉に寄るなんて、ずいぶん呑気なものですね。
 さて、朝倉に遷った斉明天皇は、7月24日にそこで病死してしまいます。67歳でした。当時としては長生きした方だと思いますが、これから対外戦争を始めようというタイミングですから、幸先が悪いですね。兵らの士気は大いに下がったものと思われます。
 この後、天智天皇7(668)年まで7年間に渡って天皇不在の空位時代が続きます。中大兄皇子はすぐには即位せず、皇太子のまま政務をとったのです。これを「称制」と呼びます。非常事態であるからこそ、即位の儀式など瑣末なことに時間を取られたくなかったのでしょう。とはいえ、実質的には中大兄皇子の治世下にあったわけですから、年号を表記する際には662年を「天智天皇元年」又は「天智称制元年」と称することとなります。
 天智天皇元(662)年5月。朝廷軍は、豊璋を百済の州柔城(つぬじょう)に送り届けて、そこで百済王としての即位の儀式を行いました。このとき、豊璋と鬼室福信は抱擁して泣いたと伝わります。やっと念願の百済復興がかなったというわけです。
 しかし、その復興も一瞬のことでした。天智天皇2(663)年。新羅が百済領内に侵攻してきました。中大兄皇子は、倭国から上毛野稚子(かみつけののわかこ)・阿倍比羅夫らを派遣して戦わせました。中でも、上毛野稚子は大活躍し、新羅の沙鼻城(さびじょう)と岐奴江城(きぬえじょう)を陥落させました。
 ところが、朝廷軍・百済軍の士気を大いに低下させる出来事が起こります。戦闘のさなかの6月、鬼室福信に謀反の嫌疑がかけられたのです。豊璋は、鬼室福信の掌に穴をあけて縛り、拷問死させたといいます。つい先日抱擁して泣いたばかりの二人が、なぜこんなことになってしまったのでしょう。詳細が伝わっていないので、真相はよく分かっていません。
 7月。唐・新羅は鬼室福信の死を聞いて勢いづき、今こそ勝機と考え州柔城を包囲します。それと平行して、白村江(はくすきのえ)で海戦が始まりました。白村江とは、韓国クム川の河口付近です。この海戦で倭国軍は大敗を喫し、州柔城も新羅の手に陥ちました。もはや勝機は潰えて、倭国軍はむなしく九州に引き返しました。このとき、2400人の百済人が倭国に亡命し、帰化したと伝わります。

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