見出し画像

30年日本史00275【平安前期】阿衡の紛議

 即位した宇多天皇は、仁和3(887)年11月21日、藤原基経に対し、政務全般を関り白す(あずかりもうす)よう命じる詔を出しました。政務全般を切り盛りするという意味で、これが「関白」の語源です。
 ただし、基経は「自分はその任ではない」と一旦辞退しました。これはこの時代の慣習で、一旦辞退することが美徳とされていたようです。「それでも頼みたい」と二度に渡って命じられて初めて受けるのが慣例だったというわけです。いかにも日本的な文化だと思います。
 閏11月27日、宇多天皇は左大弁・橘広相(たちばなのひろみ:837~890)に命じて、二度目の詔勅を出しました。ちなみに橘広相とは、あの橘諸兄の5世孫に当たります。
 この橘広相が起草した二度目の詔勅が、宇多天皇と藤原基経の間に決定的な亀裂をもたらすこととなるのです。
 橘広相が起草した二度目の詔勅には、「宜しく阿衡(あこう)の任をもって卿の任とせよ」という一文がありました。
 この時代の詔勅は、現代の行政文書とは違って詩的なセンスが求められていたようです。唐の行政文書や漢詩の書き方をよく心得ておかなければならないのです。「阿衡の任をもって……」というのは、橘広相が唐の人事文書を参考にして書いたものでしょう。
 しかしこれを見た文章博士・藤原佐世(ふじわらのすけよ:847~898)は、
「阿衡は位が高いが職掌を持たない名目だけの役職だ」
と基経に告げました。
 これを聞いた基経は怒り、一切の職務を放棄してしまいました。橘広相に責任を取らせなければ納得できないというのです。これにより国政が停滞してしまいます。
 宇多天皇は、どうにかして基経の機嫌を直そうと努力しますが、基経は「起草者に責任を取らせなければ納得しない」と言って譲りません。
 翌仁和4(888)年6月2日、宇多天皇はやむなく詔勅を撤回し、10月13日には橘広相を罷免しました。基経の機嫌を取るために他氏の排斥要求に応じたのです。
 基経はまだ納得せず、なおも橘広相を流罪にするよう迫りました。しかしここで基経を諫めたのが、当時讃岐守として讃岐国(香川県)に赴任していた菅原道真(すがわらのみちざね:845~903)でした。
 道真は基経に、「これ以上紛議を続けることはあなたのためにも良くない」との書状を送りました。これにより基経は矛を収め、紛議が収束しました。
 宇多天皇は日記に「ついに自分は志を貫くことができなかった。濁った世の有り様だ。ため息が出る」と記しています。
 この事件は「阿衡の紛議」と呼ばれ、藤原氏の権力が天皇をしのいだことを示すものとして知られています。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?