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【長編小説】魂の在処 ④

☆主人公・葵とその義兄・薫の、前世を交えての兄弟愛のお話です。はじめから読みたいという方は、こちらからどうぞ。


二章 呪縛

               ※

「ホームルームをはじめます。みなさん、席についてください」
 古典文学の教師であり、二年一組の担任でもある稲野辺光いなのべひかるが教室に入ってきたのは、一時限目が始まる十分ほど前のことだ。稲野辺は時間にうるさいタイプで、ホームルーム開始の十分くらいまえには教室で待機していることが多い。なのに今日に限って、駆け込むように教室になだれ込んできた。
 葵は、後ろの席のクラスメイトと話をするのをやめ、稲野辺の顔を見上げた。気のせいか、少し苛立っているようにも見える。
 あれ。自分の斜め前の席が空いていることに気づく。そこは七海の場所だ。
「大変残念なお知らせがあります」
 稲野辺のよく通る声が響く。小さな細い目に乗せられた黒縁眼鏡を、人差し指で軽く持ち上げた。
「昨日六時ころに、帰宅途中の吾郷あごうさんが、何者かに襲われました」
 葵は、目を大きく見開く。心臓が、ドンと大きな音を立てた。
 声を失った。無意識に、空いた斜め前の席を見る。クラスメイトたちの驚く声が教室をざわつかせる。
「怪我などはほとんどないにもかかわらず、体から五分の一ほど失血しているようで、今原因を調べているようです」
 体の五分の一が失血、って……人間って、体からどれくらいの血がなくなると、やばいんだった? ぞくぞくと背筋に悪寒が走る。こめかみに波打つような痛みを覚え、葵は左手で頭を押さえた。
「吾郷さんは現在駅前の総合病院で治療をうけてらいっしゃるようです。まだ詳しい情報などよくわかっていませんので、みなさんも、帰宅時や登校時には充分に気をつけてください。出来るだけ、単独での行動を避けてください」
 
 一時限目の授業は、大好きな古典文学だったが、ほとんど頭に入らなかった。授業が終わるなり、葵は稲野辺の元へ駆け寄った。
「先生――」
 葵が言葉を連ねるまえに、稲野辺は忍びない表情で笑みをつくる。葵の肩に、そっと手を添えた。
「大丈夫。今朝方、見舞いに行ってきましたが、予想以上に元気そうでしたよ」
 そう聞いて、体からいっきに重いものが抜け落ちた。張り詰めていた肩が、がくんと垂れた。
「よかった――」
御巫みかなぎくんは、吾郷さんとは仲がよいですものね」そういって稲野辺は、目を細めた。
「そうだ、少し話したいことがあったので、このまま職員室までご同行願えますか? ああ、ご同行だなんて刑事が犯罪者を捕まえるみたいですね」
 短く切り揃えられた白髪交じりの黒髪を触りながら、稲野辺は軽く眉根を寄せて笑った。

 職員室の扉をくぐると同時に、もわっとした空気が体を包む。扉のすぐ近くに設置された縦長ストーブが目に入る。四月とはいえど、北日本に位置するこの町は、冬とそう変わらない。ストーブの傍には中高年教師が、てのひらをかざすようにして立っていた。
 こうして並ぶと、稲野辺先生は長身だ。とはいっても、鍛えられた男というよりはひょろっと細長い学者のような井出達。オレが知る限り、先生はいつも淡いブラウンのスーツを着ている。今日も例外ではない。
「どうぞ、座って」
 稲野辺は、隣のデスクから回転椅子を引っ張り、葵に勧めた。ありがとうございます。一礼してから葵は腰を下ろす。それを見て、稲野辺もまた回転椅子に座った。
 デスクの上にあったA四サイズのわら半紙を手に取り、葵の目の前に差し出した。見ると、先日行われた学力テストの解答用紙だ。
「こんな簡単な問題を間違えるなんて、きみらしくないなと思ってね」
 稲野辺は、とある箇所を指差し、葵の顔を見た。少し声のトーンを落とす。
「また……家でなにか、ありましたか?」
 問われて、面食らった。
「あ、いえ。特になにも」
 嘘は言ってない。気まずいのはいつものことで、バイクで事故ったことで薫と揉めたわけでもない。
「それならいいのですが……なにかあったらいつでも話してください。以前のように、なんでも相談に乗りますから」
 そういって稲野辺は、目尻を落とした。ありがとうございます。感謝の気持ちを込め、葵は頭を下げた。
「古典文学は、苦手ですか?」
「いえ、全然そんなことないです。むしろ、好きなほうです」
 ほう。稲野辺は興味深そうに頷く。
「古典文学は奥が深いです。和歌などの枕詞や言い回しが、僕はとても好きなのですよ。ああ、そういえば――」
 ふと思い立ったように、稲野辺は小さな目をいっぱいに丸くした。
「先日、僕の家にある古い蔵を清掃していたときに、面白いものを見つけたのですよ。これがですね、薄紅色の実に可愛らしい扇子なのですが――」
 そこまで聞いて、七海のブログの話を思い出す。
「いまから千年ほど前の、寛仁二年のもののようなのです」
 寛仁二年。というとたしか、
「平安時代の中期あたりでしたか?」
「ご名答」
 稲野辺はうれしそうに首を縦に振る。
「そんな昔のものが、先生の家の蔵に?」
 葵は目を剥く。七海から古い扇子とは聞いていたが、まさか平安中期にまでさかのぼるとは思ってなかった。
「すっかり色褪せてしまってはいますが、とても高価なものだったことだけは、よくわかります。さらに扇子のことを調べてみたくて、我が家の家系をあらっていたのですが、面白いことがわかりました。御巫くんは、寄り代という言葉をご存知ですか?」
「よりしろ、ですか。んー、身代わり的な感じの――」身代わり。その言葉に、心の深い部分にあるなにかが反応する。胸を押さえた。
「ん、似ていますが少し違います。いまでいう巫女という職業は、昔は神の寄り代――つまりは、神をその身に憑依させ、その言葉を変わりに伝える役目を担っていたのだと思われます。我が家の家系には、その寄り代の役目を代々請け負っていた血統があったようで……どうもその扇子は、巫女のどなたかのものではないかということがわかったのです」
 巫女。葵は呟く。巫女というと、初詣などのときにお守りなどを売ってくれる人ってイメージしか浮かばない。正月や特別な儀式のときに、神楽鈴を持って舞を踊る姿は幾度か目にしたことはあったが、それもただの儀式的なものだとしか思ってなかった。
 稲野辺は、少し体を前屈させた。
「ひとつ、気になることがありまして……」声のトーンが落ちる。
「その扇子には、おそらくは血の跡ではないかと思われるシミが多々残っているのですよ」
「血、ですか」ぎょっとした。
「ええ、平安時代というと、そう血塗られた時代ではなかったかとは思うのですが……いったいその巫女さまが、どんな最期を迎えられたのかとても気になってね」
 たしかに。葵は息をのむ。血にまみれた扇子。いい死に様でなかったのは、言うまでもないのだろう。
「ああ、そうだ。少し待ってくださいね。えっと……」ひとりごとのように呟きながら、稲野辺はデスクにあるパソコンのキーボードを叩く。
「これです」
 そういって開かれた画面には、色褪せた薄紅色の扇子が浮かび上がっていた。透き通るように白い曼珠沙華の花が、扇面いっぱいに描かれている。
 それを見た瞬間、頭のどこかでなにかが切れたような音がした。思わず、自分の額に手をあてがう。なんだ、これ。なんだ、この感覚。
 葵は、画面に映し出された扇子を、食い入るように見つめた。
「ネットに、扇子の写真と、僕が上げることが出来る情報を掲げてみました。運よければ、ゆかりのある縁者の方と繋がれば――などと、思っています。御巫くんも、この手のものに興味がおありでしたか? 御巫くん?」
「え、ああ」
 魅入られていた。その扇子に。
「ええ、はい。割と好きです。えっと、見つかるといいですね。その、ゆかりのあるかたが」
 ありがとう。稲野辺は目を細めた。そして、なにかを懐かしむような遠い目をした。
「不思議なのですが……どうしてもこの扇子の持ち主のことが、気になりましてね。ああそうだ」
 思い立ったように、稲野辺はデスクの上で手を組んだ。
「こういったものがお好きなのでしたら、お暇なときにでも一度、見にいらっしゃいませんか? もちろん、吾郷さんもご一緒に」
 驚いた。
「いや、でも、いいんですか?」
 もちろんです。稲野辺は大きく頷く。
「ありがとうございます。なな……、吾郷さんにも伝えておきます」
「今日は、吾郷さんのお見舞いに?」
 はい。葵は、頬を緩めた。目を細めて笑う稲野辺に向かって一礼をしてから、職員室を後にした。
               

 放課後、七海が入院している駅前の総合病院に向かいながら、今朝に見せてもらった扇子のことをぼんやりと思った。
 色褪せてもなお、気品を放つ薄紅色の扇子。いまにも、花の香りが漂ってくるような、そんな甘い情景さえ浮かんでくる不思議な感覚。描かれていたのは曼珠沙華だったが、桜の香りが漂ってきそうな淡い桃色だった。
「桜、か」
 道路脇に連なる桜の木を見上げた。このあたりはまだ寒さが残る。桜が見れるのは、ずいぶんとまだ先の話なんだろうな。
 ふと、桜餅が食べたくなった。子供のころからの好物だ。見舞いの品に、七海に買って行こう。
 駅前通にある和菓子の老舗「萌黄庵」で、桜餅を四つほど購入してから、葵は総合病院に向かった。

 受付で七海の病室を尋ね、三階までエレベータで上った。扉の前で名前を確認し、二回ノックする。扉をスライドさせると淡い桃色のパジャマの上に、白いカーディガンを羽織る七海の姿が目に入った。長い巻き毛は左肩の上でひとまとめに束ねられている。病室のリクライニングベッドを半分くらい起こしたまま、文庫本を読んでいた。ちらりと見えた表紙は、先日みた十二単を着た少女のイラストだ。
「おまえ、本当にその漫画好きだな」
 病室の入り口に葵の姿を見つけると、七海はとても嬉しそうに顔をほころばせた。
「大丈夫なのか?」
「あ、うん、全然平気。早く退院したくてうずうずしてるくらい」
 そう言い、口元を大きく緩める。葵の手元を見て、大きな目をさらに丸くした。
「や、それは、萌黄庵の包みではござらぬか」
 ああ。抹茶色の紙袋を七海の前に差し出す。
「なんか桜餅が食べたくなってさ。そういやおまえ、食事制限とかあるんだっけ? ごめん、なにも考えてなかった」
「あってもそんなの黙ってりゃわかんないわよ。ひとつちょうだい。あ、お茶ならそこの冷蔵庫に」そういって七海は、サイドテーブルの下を指差す。簡易冷蔵庫があった。
 頷きながら、葵は七海の顔色をうかがった。元気そうではある。体の血が五分の一も喪失していたと聞いたのに、顔色もそう悪くはなかった。声も挙動もしっかりしている。葵は胸を撫でおろす。よかった。自然と眉が開く。
 簡易冷蔵庫からお茶のボトルを取り出し、ベッドの傍にあったパイプ椅子に腰を下ろした。
「先生は、怪我はないって言ってたけど、本当にどこも大丈夫なのか?」
 そう問いかけると、七海は桜餅に食らいつく手をとめて、首をかしげる。
「そうなのよ。怪我もないし、わたし別に貧血ってわけでもなかったんだけど――不思議だよね」
「襲われたって聞いたけど、なにがあったんだ?」
「葵も食べなよ。あんたが食べたくて買ってきたんでしょ?」
「ああ、うん。じゃ遠慮なく」萌黄庵の袋から、桜餅の包みをひとつ取り出した。
 七海は再び、桜餅にかじりつく。
「それがさ、すごい変なやつだったのよ」
「変なやつ?」
「そ。あまり街頭のない場所だったから、暗くてよくわからなかったんだけど、狐のお面あるじゃん。祭りとかでよく売ってるやつ。あれに、まっ白な毛みたいなのがふわふわついてて、まるで白髪みたいだった。ほら、あれよ、もののけ姫でサンが被ってたお面あったでしょ、あれみたいなやつ。それに、真っ赤な巫女装束!」
「巫女、装束? ってことは、女だったのか?」
「そこまではわからないけど、なんせすごい力だった。あれは女の力じゃないよ。突然、飛び掛ってきてさ、首元に噛み付かれたかんじがして」
「噛み付くって、お面かぶってたんだろ? そいつ」
「んー、よくわからないんだ。首元にちくっとした痛み感じて、そのまま意識飛んじゃったみたいでさ」
 七海は、両腕を胸の前で組んだまま、軽く首を傾けた。
 この部屋に入ってきたときもそう感じたが、少し暑い。そのせいなのか、七海の顔がほんのりと赤らんでいる。
「暑くないか? 顔、赤い」
「え? ああ、うん。なんかさ、体調悪くなると困るからってエアコン入れられないんだわ、ここ。葵、暑い? 窓開けようか」
 七海は、ベッドから降りようとしたので慌てて制した。
「オレがやるから。いいよ、寝てて」そう言い、病室の窓を少し開く。とたんに涼しい空気が部屋に流れ込んできた。少し汗ばんでいた額が、すっと冷めて気持ちがいい。
 窓から見える駅前広場を見下ろしながら、葵は静かに告げた。
「――退院したらさ、バイトのとき以外は家までちゃんと送るから」
「え、なにそれ。いいよ、そんなことしなくても」
「オレは、見た目も女みたいで弱そうだし、実際全然強くねぇけど――それでも、女の子一人でいるよりは全然マシだと思うから」
 葵がそう言うと、七海は軽く口を開く。瞬間、その頬が大きくほころんだ。
「……なに」
 困ったように葵は眉根を寄せた。
「いや、なんか昔にもこういうのあったなぁと思って」
「……あったっけ」
 うん。懐かしい出来事を思い出し、七海は淡い微笑みを浮かべた。
「葵はもう忘れてるかも、だけど――。小学校三年生くらいのときだったかなぁ、学校からの帰り道で、わたしが同じクラスの男子と大喧嘩したの覚えてる?」
 七海を振り返り、葵は遠い日の記憶を呼び覚ます。
「ああ、そういえば……」 
 まだ幼かった七海の、ぱっつんに切られた前髪と広いおでこが瞼に蘇った。
 家族を亡くし、御巫の家に引き取られてから三年あまり。当時オレはまだ、周りの環境にうまく溶け込めず、自分の内側に引きこもることが多かった。それは、学校に行っても家にいても同じ日常で。あの日、七海と一緒に帰宅する途中、クラスの男子がオレのことを「ひきこもり」だの「根暗」だの「愛想がない、かわいくない」だの、散々ののしった。
 他人の言動なんて本当にどうでもよくて。言われるがまま、流していた。
「あのときさ、なに言われても涼しい顔して、あいつらが散々葵のこと悪くいっても全然平気な顔してて。わたしのほうが腹立って男子に殴りかかったんだけどさ」
 七海は気まずそうに笑った。
「わたしとそいつが大喧嘩してるのに、それもすんごい冷めた目で見てたくせにさ、わた「巫女、装束? ってことは、女だったのか?」
「そこまではわからないけど、なんせすごい力だった。あれは女の力じゃないよ。突然、飛び掛ってきてさ、首元に噛み付かれたかんじがして」
「噛み付くって、お面かぶってたんだろ? そいつ」
「んー、よくわからないんだ。首元にちくっとした痛み感じて、そのまま意識飛んじゃったみたいでさ」
 七海は、両腕を胸の前で組んだまま、軽く首を傾けた。
 この部屋に入ってきたときもそう感じたが、少し暑い。そのせいなのか、七海の顔がほんのりと赤らんでいる。
「暑くないか? 顔、赤い」
「え? ああ、うん。なんかさ、体調悪くなると困るからってエアコン入れられないんだわ、ここ。葵、暑い? 窓開けようか」
 七海は、ベッドから降りようとしたので慌てて制した。
「オレがやるから。いいよ、寝てて」そう言い、病室の窓を少し開く。とたんに涼しい空気が部屋に流れ込んできた。少し汗ばんでいた額が、すっと冷めて気持ちがいい。
 窓から見える駅前広場を見下ろしながら、葵は静かに告げた。
「――退院したらさ、バイトのとき以外は家までちゃんと送るから」
「え、なにそれ。いいよ、そんなことしなくても」
「オレは、見た目も女みたいで弱そうだし、実際全然強くねぇけど――それでも、女の子一人でいるよりは全然マシだと思うから」
 葵がそう言うと、七海は軽く口を開く。瞬間、その頬が大きくほころんだ。
「……なに」
 困ったように葵は眉根を寄せた。
「いや、なんか昔にもこういうのあったなぁと思って」
「……あったっけ」
 うん。懐かしい出来事を思い出し、七海は淡い微笑みを浮かべた。
「葵はもう忘れてるかも、だけど――。小学校三年生くらいのときだったかなぁ、学校からの帰り道で、わたしが同じクラスの男子と大喧嘩したの覚えてる?」
 七海を振り返り、葵は遠い日の記憶を呼び覚ます。
「ああ、そういえば……」
「わたしとそいつが大喧嘩してるのに、それもすんごい冷めた目で見てたくせにさ、わたしがそいつに突き飛ばされておでこに怪我したの覚えてる?」
「ああ、うん、覚えてる」
「立ち上がって、もう一発殴ってやろうと思ったら、隣から葵が出てきて、そいつの胸をおもいっきり突き飛ばしてさ。びっくりしちゃった。いつのまにか、葵がそいつのおなかの上に馬乗りなってバシバシ叩いてたから、ほんとにびっくりした」
 なにかひどく気恥ずかしくて、葵は七海から視線を逸らす。
「いいよもう、そんな……昔の話」
「うん、でもねわたし、あのときね――びっくりしたけど、嬉しかったんだ」
 顔をあげて、七海を見た。その横顔には、こぼれるような親しみがあふれている。
「だって、いつも葵、わたしの話に相槌はうってくれるけど、いつも寂しそうで居場所がなさそうな顔してて、無意識に他人を拒絶してるような……そんな感じしててさ。んー、自意識過剰なのかもしれないけど、わたしのことであんな風に怒ってくれて……初めて感情みせてくれて……だからわたし、すごく嬉しかった」
 七海は、花が咲くように笑った。その笑顔に、胸のどこかがじんわりと熱くなる。窓から注ぐ風が、葵の前髪をはらはらとさらう。その空気の冷たさと反比例して、頬が熱い。ひどく、恥ずかしい。
「いつもなら、わたしのほうから一緒に帰ろうって声かけてたのに、あの日から葵、必ずわたしのこと待っててくれて――喧嘩した奴らがいるのをみると、わたしの腕つかんで早足で歩くんだ」七海は口元に手をあてて、楽しそうに笑う。
「だってあいつら、結構体格よかっただろう。オレがまともに張り合っても、絶対に勝てねぇし」
「でも、守ろうとしてくれたでしょ」
「まあ、それは……オレのことでまた、喧嘩されて怪我されても嫌だったし」
 葵は窓の傍から離れて、再びパイプ椅子に腰を落ち着けた。七海に横顔を向けたまま、軽く足を組む。
 葵の行動を目で追いながら、七海は目を細めた。
「なんだ、こいつ、いい奴じゃんって、そのとき初めて思った」
「……お褒めいただき、ありがとうございます」
 たどたどしい口調でそう告げた葵をみて、七海はまた笑った。
 子供のころの話なんて、もう気恥ずかしい以外のなんでもない。だけど、あのときの自分がなにを思ってそうしたのかだけは、割とはっきり覚えている。うれしかったんだと思う。そうだ、オレも、嬉しかった。自分のことで、あんな風に怒ってくれる存在がまだ近くにいること。
 七海は、萌黄庵の袋から桜餅の最後の一個を取り出した。
「食べちゃっていい?」
「いいよ、おまえのために買ってきたんだし」
 ありがとうううう。語尾を甘えるように伸ばし、七海は桜餅にかじりつく。その顔を、ほんわかとした気持ちで眺めた。
「ああ、そうだ。稲野辺先生がさ、例の扇子を見に遊びにこないかって」
「は? え、あのブログの扇子?」
 そうそう。葵は首を縦に振る。
「実物みせてもらえるの? うわぁ、行く行く! 絶対に行く!」
「じゃあ、七海が元気になったら行こう」
 そういうと、もう元気だよぉ、と七海は不満げに言った。
「来週頭には退院できるってお医者さんが言ってた。退院したら、すぐに連絡する」
 桜餅をおいしそうにほおばりながら、七海はにっこりと微笑んだ。       

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