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それでも車が好き

僕は車を持ってない。でも車が好きだ。

子供の頃夢中になったのはプラレールよりもトミカだった。

トルクとか加速とか馬力とかいわゆるマニアックなことは全然分からないのだけど、大きな鉄の塊がはしる、という構図そのものが好きだ。

居住空間がそのまま動く。これは他の公共交通機関にはない特徴だと思う。電車にしてもバスにしても、そこは「外の世界」だからだ。

車は部屋が移動している感じに近い。きわめてリラックスしたモードのまま旅行が楽しめる。

今の日本で車を持つには、なにかとお金がかかる。

僕自身も車に魅了されながら、生活を考えると持てないというのが現実だ。今住んでいる場所にマストで必要というわけでもない。

胸を張って車を好きといえるようになったのは僕の中でひとつの転機だった。

というのも、ここまで車に心をうばわれるようになったのはごく最近のことだからだ。

潜在的にはずっと好きだったのだと思う。最初に書いたように僕はトミカやはたらく自動車の絵本に昔から夢中だった。

周りに流されていた期間、そして同じくして自己肯定感が極端に低い期間があり、車への興味はほぼゼロになっていた。もっとも、幼少期の憧れは少年〜青年期になると薄れていくのが一般的だ。だから自然な流れだったのかもしれない。

「車っていうて必要ないよね」

「事故のリスクもあるし維持費も馬鹿にならないし」

そのようなまわりの言葉に僕は納得していた。ある意味事実だし、真実だと思っていた。

それに、僕は鈍臭いからきっと運転に適性がない、という決めつけもあった。

2019年に実家で車を買い換えることになって、はじめて車について真剣に考えた。

どれも同じだと思っていた車が、実はそれぞれに個性があることに気がついた。

そして同時に、胸が熱くなる感覚をおぼえていた。それは幼少期に消防車や当時目新しかったプリウスに感じたワクワクに他ならなかった。

車ってかっこいい!そう思った。

新車を買う上で、家族は車にあまり興味がなかった。「燃費が良くて、小回りがきいて、維持しやすい車」というのが彼らの希望だった。

今ならホンダのNシリーズやトヨタのアクアを勧めていたと思う。でも去年の僕はまだそこまで車の知識がなかった。

「マツダのデミオがいい」

と言った。道路を走っているマツダ車の造形やカラーリングに魅力を感じていた。

「…マツダ?」

家族の反応は懐疑的だった。どちらかというとマイナーなメーカーだし、そもそも急に僕が車に興味を持ち出していることに対しても薄気味悪さを感じているようだった。

「騙されたと思って、1回ディーラーに行こう」

と僕が買う訳でもない車をゴリ押しした。

結果からいうと、ディーラーの方の印象も良く、試乗した感想も悪くないということで、母親は割とすぐにデミオを購入することになる。

納車されたデミオを眺める。

真っ赤なボディにキリッとした目がかっこいい。マツダはフロントのデザインをほぼ統一している。全ての車が似たような顔だ。フラグシップモデルのアテンザと造形は似ているけど、目が丸っこくて子供みたいに見えるのが可愛い。

ナビの精度がイマイチだったり、固めの足回りとやや敏感なハンドルに、母親はマツダを選んだことを少し後悔していた。

…ちょっと申し訳ないと思っている。

一人暮らしを始めるまでの間、何度もデミオを運転させてもらった。念願のマツダ車はスポーティでスタイリッシュで大満足だった。

今はマツダだけでなくほとんどの国産車が好きだ。

軽もミニバンも、セダンもSUVも好きだ。

ジーンズの時も書いたけど、車は僕の「自分軸」の象徴たる存在なのだ。

周りや世論がどうであれ、好きなものを好きと言うことの大切さが真っ赤なボディに詰まっている。

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