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「ひょっとしたら」という言葉に現れるもの〜学べば学ぶほど人は知的に謙虚になる

運営しているYouTubeチャンネルで私の師匠の鶴田先生に登場いただきました。人材育成に30年以上携わられている大ベテランで、非常に濃い言葉をたくさんいただきましたので、もしよろしければご覧ください。(全部で6本ありますが、最初の2本だけ載せておきます)

「答えを教えない」重要さ

いつも説得力のある教えをくださる彼の根っこにあるものは何なのだろう、と思っていましたが、3本目の動画で、彼のスタンスの本質がわかるようなシーンがありました。

それは「答えを教えるという行為は、相手の主体性や自主性を奪う」という言葉です。

部下や後輩から質問を受けると、ついつい自分が持っている知識を相手に教えてしまう。それで相手も喜ぶし、自分も満足できる。しかし、あとに残るのは悦に入っている自分と、自分で答えをつかみ取れなかった部下だけ。そこには何の意味もない、と彼は言います。ついついリーダーがやってしまいがちなことだと感じます。

じゃあどうしたらいいのか。彼の様子を見ていると、よく彼が使う言葉があることに気が付きました。

それは「ひょっとしたら」という言葉です。

「ひょっとしたら、こんな考えが役に立つかもしれない」
「ひょっとしたら、こんなことは関係があるかもしれない」

直接的に答えを言うわけでも、こうしなさいと命令するわけでもない。だけど、ヒントになるような材料は色々と机の上においてあげる。もしかしたら役に立つかもしれないから、興味があるものは自分で取り入れてごらん。

そういう導き方をしているんだな、と思いました。そのスタンスが、「ひょっとしたら」という言葉に集約されているのだと感じました。

河合隼雄さんのかかわり方もそれに似ている


鶴田先生を見ていると、「誰かに似ているな」と思えてきました。

それは、もう一人私が私淑する、かつて心理療法士として活躍された河合隼雄先生です。彼の講演録などもYouTubeにたくさん残っていますが、彼も軽妙な語り口の中で、この「ひょっとしたら」という言葉をよく使われます。関西弁のイントネーションも含めてとてもよく似ているなと思うのです。

彼が心理療法士として人にかかわる時に持つべきスタンスは、「なるべく何もしないこと」なんだそうです。あくまで本人が自分で気づいていくのをアシストすることが重要なのですが、これがなかなか難しい。彼はこんな心境を著書『こころの最終講義』の中で吐露されています。

我々が余計なことをしないということだと思います。これは簡単なようで、ものすごく難しいことです、自分が考えましても、反省しても、どうしても何かしてしまうんですね。それは困った人を助けようという気持ちがすぐに出てきて、本当は助けられることはないんですけれども、どうしても助けたくなってくるんですね。そうじゃなくて、私が助けるのではない、この人の心の中に何かできあがってくるんだということがもっとわかれば、相当な時でも待てると思うんですが、なかなかそうはいきません。

何もしないというと、本当に何もしないんだと思う人がおりましてちょっと困るんです。「それやったら、わたしはいつもやっている」なんて言う人もおられます(笑)が、そんな単純なことではなくて、何もしないというのは、余計な手は出さない、余計な手は出していないですけれども、心は本当にかかわっていくわけです。

こうしたくだりからも、彼が人に関わることのスタンスに非常にこだわった姿勢を持っていることが伝わります。(ユーモアも最高です笑)

「ひょっとしたら」という言葉に現れる、知的な謙虚さ

こうした2人の知の巨人のスタンスに接し思うことは、「学べば学ぶほど、人は謙虚になっていく」という事実です。

アインシュタインは「学べば学ぶほど、わからないことが増える」と言いました。また、ソクラテスは「無知の知」と言いました。要するに「自分がいかにわかっていないかを自覚する」ことが大事だということです。

我々が知っていることなんて、世界のほんの一部。また、自分の関わりが、誰かの人生に決定的な影響をもたらせるとも思わない。それでも、少しでも役に立とうとすることくらいはできる。

そうした謙虚な関わりが、むしろ人の成長の助けとなることができるのではないか。偉大な人生の先輩に謙虚な人が多いのは、そうした姿勢の重要さを経験から体得されているのではないか。そんなことを感じました。

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