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私の音楽遍歴

はじめての習い事

 今から65年ほど前のこと、私が小学校4年生のときだっただろうか、近くに音楽を教える先生がいると聞いた母が、私の手を引いてその門を叩いた。その先生はシロフォン(木琴)の奏者で、私は早速マレット(ばち)を持たされて、練習が始まった。しかし、簡単な練習曲を弾きはじめてまもなく、その老齢の先生が病に臥せって、若い先生が代講を務めることになった。その先生は、シロフォン奏者ではなく、教えてくれる楽器はピアノに変わった。そして、ピアノの練習の後にクラシックのレコードを聞かせてくれて、その作曲者や曲にまつわる話をいろいろしてくれた。それまであまり聞くことがなかったクラシックの名曲に触れるとともに、いろいろな音楽家のことを知ることができた楽しいレッスンだった。

ピアノから声楽へ

 しばらくして、老先生が亡くなり、若い先生の代講もなくなった。そうすると、母はすぐにピアノを教えてくれる別の先生を見つけてきた。女の先生で、ときどきヒステリックに年長の生徒を叱ることもあった。そして、バイエル(ピアノの入門用練習曲集)と一緒にコールユーブンゲン(声楽の練習曲集)をやらされた。その先生は声楽が専門だったのだ。自分から望んだのではなかったが、発声や歌い方の基本を教わったことは、後から考えると貴重な経験だったと思う。これは小学校卒業まで続いたが、進学した中学校が通学に1時間近くかかる私立の学校だったので、あまり楽しくなかった音楽教室もやめることができて正直ホッとした。

趣味は岩石集め?

 中学に入って英語の授業が始まると、まだ満足に英文が書けないのに、試してみたくて海外文通をやってみた。相手は米国カリフォルニアの同世代の女の子。まずは自己紹介から。辞書を引きひき、何とか書き終えて投函すると、しばらくして返事が来た。そこには自己紹介で“Rock”が好きだと書かれていた。えっ、岩石集めが趣味かっ?と思ってびっくりした。すでに日本でもプレスリーの「ハートブレイクホテル」などがヒットしていたが、それらはロックンロールと呼ばれていて、日本ではまだ「ロック」という呼び方はされていなかった時代だ。同じように始めた友達の文通相手からもRockが好きの自己紹介があって、英語の先生に聞いてみたが、先生も首を傾げるばかりだった。

ウクレレ・ギターもやってみたが

 その頃、ハワイアンも流行った。安物のウクレレを買ってきて練習(もちろん自己流で)してみたが、熱中するまでには至らず、すぐにやめてしまった。また、ギターにも手を出したが、これも続かなかった。今から思えば、ピアノをやっていたからか、コードではなくメロディーを奏でたかったのだろう。妹もやっていたので家にはピアノがあったが、妹はすでにバイエルを卒業してソラチネに進んでいたこともあって、私は今さら再開する気はなかった。そこで始めたのがアコーディオンだ。これは細々ながらも続いて、簡単な曲なら弾くことができるようになった。

音楽の家庭教師になる

 私の父は、音楽を専門的に学んだことはなかったが、聴くのは好きだったようで、家には蓄音器があり、歌謡曲や少しだがクラシックのレコードを持っていた。そして、ステレオLPレコードが普及すると、早速ステレオセットを買い込み、クラシック音楽全集を揃えた。私も、小学生の頃教えてもらったことを思い出しては、それらをよく聴いた。大学生になったばかりのこと、そんな私を見て、母の友達が、「ウチの娘は、音楽大学へ行かせようと思って小さいころからピアノを習わせているが、音楽が好きなようには思えない。あなたは、いろいろ楽器を弾いたりレコードを聴いて、とても楽しんでいるようだ。そんな音楽の楽しさを教えてやってもらえないか。」と私に言った。もちろんオーケー。やった内容は、週1回レコードを聞かせて、私が小学生のときしてもらったように、それについて解説したりした。クラシックが主だったが、ジャズやフォークにも少し触れた。そして、毎月1回コンサートを一緒に聴きに行った。こっちの方はクラシックだけだったが。後に、その子はめでたく音楽系の短大に進学した。

バンド結成

 大学の卒業研究で配属になった研究室では、先輩の大学院生が1人いて、音楽で身を立てようと思ったことがあるというくらいの音楽好きだった。そして、私たちを誘って研究の合間に一緒にギターを練習するようになった。ギターをやらない私も、聴いているだけだったが、仲間に入った。そして、私を含めて4人が大学院へ進み、練習は継続した。その秋、私は結婚したのだが、友達が会費制で祝賀会を開いてくれた。その席で、研究室仲間が数曲演奏してくれ、最後に「実は新郎もメンバーでヴォーカルです」といって、私も引っ張り出された。いつもの練習はフォークで、私も一緒に歌っていたのだ。それを聞いていた妻の友達が、職場の組合でクリスマスパーティーをやるので、ギャラは少ないが出てくれないかと言ってきた。皆尻込みしたが、先輩が「やろう!」と言って決定した。それからは研究そっちのけで猛練習。いつものフォークだけでなく、ダンス曲も取り入れた。私もヴォーカルだけでなく、タンゴではアコーディオンを弾いた。何とかバンドのデビューを果たし、もらったギャラで飲みに行ったが、額がわずかだったので、あっという間になくなった。

 就職してからは、レコードやカセットテープあるいはCDで聴く以外は音楽から遠ざかってしまった私だが、リタイアして篠笛をやることができるようになった今、毎日の練習を楽しんでいる。

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