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2019マイベスト展覧会 第2位「遊びの流儀」展@サントリー美術館

サントリー美術館で6月26日~8月18日まで開催されていた「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展。一口に「遊び」といってもその様相はさまざまで、子供たちの無邪気な遊びもあれば、年中行事、遊郭での遊び、文人の嗜みとされる「琴棋書画」…。その多様な「遊びに興じる姿」を日本美術ではどのように描かれてきたのか、遊楽図の系譜を中心に展望する展覧会。

ベストオブタイトル!

本展は今年の展覧会の中でベストオブタイトル賞を授けたい。「遊びの流儀」ーーはい、かっこいい。某TV番組を彷彿とさせるが、会場を出る頃にはこのタイトルが大袈裟でないことがわかる。「遊び」という言葉には「気晴らし」あるいは「他愛のないこと」、つまり「真剣になるようなものではない」というイメージがあるからこそ、その後に続く「流儀」という言葉が活きてくる。そして、気づくのだ。私たちは「遊び」というものに対して、それこそ真剣に考えたことがなかったことを。知っているつもりであったことを。「遊び」って何???

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生れけん

展覧会全体を貫く世界はこの『梁塵秘抄』の一節。

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそゆるがるれ

(遊びをするために生まれたきたのだろうか。
 戯れるために生まれてきたのだろうか。
 無邪気に遊んでいる子供らの声を聴いていると
 大人である私の身体さえ動き出してしまいそうだ…)

この歌が会場全体に響き渡るように、展覧会はあらゆる角度で「遊び」を捉え、幅広く展開する。

1章「月次風俗図」の世界ー暮らしの中の遊び
2章 遊戯の源流ー五感で楽しむ雅な遊び
3章「琴棋書画」の伝統ー君子のたしなみ
4章「遊楽図」の系譜①「邸内遊楽図」の諸様相
5章「遊楽図」の系譜②野外遊楽と祭礼行事
6章 双六をめぐる文化史ー西洋双六盤・盤双六・絵双六
7章 カルタ遊びの変遷ーうんすんカルタから花札まで
8章「遊楽図」の系譜③舞踊・ファッションを中心に

1章の「月次風俗図」では年中行事の祭礼や羽子板遊びなどに興じる子供らの姿などが認められる。「遊び」という語がもつ第一イメージといったところ。2章では平安時代以降、蹴鞠や絵合せ、琴など宮中で育まれた「遊び」を「源氏物語」を描いた作品などから見ていく。ここでいう「遊び」とは、五感を研ぎ澄ませ技術やセンスを磨く(ことが勝敗を分ける)こと、言い換えれば”嗜み”に近いだろう(3章とかぶってしまう…)。3章の「琴棋書画」は、中国において文人が持つべき技芸とされた「琴、囲碁(棋)、書、画」を表したもので、”教養(あるいは必須科目)”といったところか。近世に入り、この「琴棋書画」が三味線や双六、手紙など当世風のモチーフに置き換わる「見立て絵」が成立することから、この「琴棋書画」が”遊び”の世界における一種の”権威”となったとも言えないだろうか。

個人的に魅力を感じたのはやはり4章以降の「遊楽図の系譜」。遊郭と思しき室内外で男女が酒、双六、カルタ、踊りなど思い思いに遊興に耽る「邸内遊楽図」が特に魅力的だった。邸内遊楽図に見られる退廃的なムード。そこには子供の時の無邪気な「遊び」とは異なる、一種の駆け引きがあるからだろうか。男と女の視線のやり取り。ほろ酔い加減で、描かれている人物が皆どこか夢うつつの様子。観ているこちらも、どこかユートピアのような感覚に陥る。

書いていて気づいたのだが、1章~3章までで扱っている作品群は、市井であれ宮中であれ中国文人の世界であれ、それぞれの”現実世界の中で行われている遊び”であるのに対して、「邸内遊楽図」は”遊ぶための空間”という違いが退廃ムードを引き起こす理由でもあるのではないか。描かれている人物は皆本当の住まいを持っていて、そこで生活をしているけれども、この屋敷の中に入ってからはそれら一切を頭から排除し、遊興に耽る。あるいは酒を注ぐ女や三味線を弾く者などは、その遊興の時間を提供する仕事に従事しているのだろう。そこで働く者も通って来る者も皆わかっている。この時間が仮初めであることを。酔いが醒めれば、カルタが終われば、三味線の音が止む頃には、、、「遊び」はおしまい。
果たして、彼らは心の底から「遊んで」いるのだろうか。

視点はマクロからミクロへ

5章では、花見や紅葉狩り、あるいは屋外での歌舞伎踊りの様子など、近世の「野外遊楽」を描いた作品や、加茂競馬など屋外で行われた「祭礼行事」にまつわる作品をみていく。こうした作品からは、町や会場が一体となって盛り上がる、群衆の熱気を伝える。今ならワールドカップやハロウィンの渋谷の様子にでもなるだろうか。
そうした野外遊楽や祭礼行事を描いた作品”マクロ”的遊楽図とすれば、次第に視点はミクロ(というよりクローズアップ)になっていく。遊楽図の基本要素でもあった三味線とそれに合わせて踊る人々。邸内、野外問わず、多くの作品で人々が輪になって踊る様子が描かれている。遊楽図の一つの景を成していた踊る人々が、次第にそこに焦点が当たり、舞踊図が生まれ、踊る人の姿へ関心が向くと後の「寛文美人図」のような女性一人の立像が生まれ、衣装(小袖)の柄へと関心が向くと「誰が袖図屏風」のように人物不在の絵が生まれる。「遊び」の時間を彩っていた、踊り、衣装、文使い…それらが独立して描かれるようになり、それらは後の浮世絵へとつながっていく。

「遊び」の文化史・美術史

読み直してみるとポエティックになってレビューになっていない…(笑)でも、「遊び」をテーマにした展覧会、それも一興ということでご容赦願おう。展覧会では様々な遊び道具(婚礼調度としての囲碁・双六盤、天正カルタやうんすんカルタなど)も併せて展示されており、”遊び”という行為に対して文化史的アプローチもしている。江戸時代からカルタが何かしらの知識を得るための教材的役割を持っていたこと、双六盤が輸出用製品として日本と海外をつないでいたことがうかがえる。私は「うんすんカルタ」なるものを今回の展覧会で初めて知り、そのインパクト大なネーミングが強烈だった。「うんすんカルタ」はどちらかというと今のトランプに近いもので、1枚1枚のデザインもハイセンス。こんな洒落たカードでカルタ遊びもすりゃ、そりゃトップ画像のような色気も纏うのもわかる気がする。
(トップ画像は図録の表紙で作品は「かるた遊び図」)

終わりに

夏に見た展覧会を図録を頼りに思い出しながら書いたので、まとまりのないレビューになってしまった。作品の濃密さ、高いデザイン性と細やかな細工が施された遊び道具を見れば、「遊びの流儀」というタイトルも決して言い過ぎではない。「遊び」の追求こそ、生きる喜び、心のうるおい(豊かさ)とでも言おうか、そうした心の襞を持つことが、憂き世を生きる心得なのかもしれない。さて、自分は「遊び」のある生き方ができているかしら。





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