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20歳前後で生きる意味や生きていく展望に苦しみを感じて、どうしようもない無力感に悩まされている人たちへ

せいねん‐き【青年期】
発達心理学で14、5歳から24、5歳までの時期をいう。生理的には性的成熟に伴う急激な身体的変化が現れ、心理的には内省的傾向、自我意識の高まりがみられる一方、不安・いらだち・反抗など精神の動揺が著しい。
(出典:小学館/デジタル大辞泉)

青年期が終わろうとしているのだなあと感じる。それは純粋に年齢的な意味だけではなくて、精神的な意味でも青年期が終わろうとしているのだと思う。青年期の主要題目である自我同一性の確立について、とりあえずの落ち着きを得ることができたからだ。

20歳前後の生きることへの苦しみは、この青年期の特徴なのだろうと思い、同じ苦しみを得ている人たちに何か参考になればと書き残している。(たぶん同時期の僕なら「鼻につく野郎だぜ」と突っぱねるし、今でもちょっとそう思う)

ちょうど中学生から新卒の社会人くらいの年齢にまたがる青年期は、思春期の内的な反省からはじまって社会と対置する自己の確認に費やされる。要は自分のことをめっちゃ考える時期だ。

それは主に学校生活であったり、学外活動であったり、家庭環境であったり、就職活動であったりと様々な場で経験されることになる。他人と自分はどうして違うのか、自分はどうして自分なのか、自分はいったい何者になっていくのか、懊悩にさいなまれることになる。

こういった心の動きについて考える示唆や先輩の経験談を知ることができるのが文学や哲学であるので、触れておくと良いのかもしれない。カッコつけることもできるし。

それで青年期が終わりかけた今になって「ああ自分は自我同一性に苦しんでいたんだなあ」と分かったのだが、もうちょっと誰かが教えてくれても良かったんじゃないかと不満も言いたくなってしまう。世の中は僕のママじゃないのでそれは高望みというものなのだが。

この自我同一性って単語はむずかしくて、今でも僕はその意味があまり分かっていない。簡単に言えば自分は誰なのかを理解することなのだろうと思うのだが、そんなことわかっている人間がいたら怖いし、自分の価値観を押し付けてきそうだし、想像しただけで泣いてしまう。

だから僕は自我同一性を「自分が好きなことを知ること」くらいの意味でとらえることにした。これは悩んでいる自分を救ってくれる考え方にもなった。

そもそも。

おそらく青年期で抱えているであろう悩みは自分自身のことでありながら、それは社会に向いているのだろうと思う。そしてそれは比較の形をとる。

同年代の周りと比べて自分はどうなのか、同じような境遇の人間と比べて自分はどうなのか、将来の自分と比べて今の自分はどうなのか、比べて比べて何度も悩み続けることになる。もう嫌になるくらい。

結局は社会の中に生まれて社会の中に生きていく人間だから、他と比べざるを得ないのは仕方ない。特に学校生活の中では他人との優劣が気になって仕方ないのだと思う。テストで良い順位とるのにめちゃくちゃ頑張れる人とかいたよね。

勉強から受験へ、就職から労働へ、恋愛から結婚へ、才能への嫉妬、人気への嫉妬、その他もろもろ。人間はいろいろと比べられることになる。そんなレースに初めから参加させられている。

例えば僕はたまたま勉強が得意だったので、その社会の競争の中でちょっとだけ楽しく戦うことができたのだが、だんだんと息切れしてきて疲れるようになってしまった。社会で勝利する将来の自分を思い描いてもうれしくないというか、それって僕である必要があるのかなあと思ってしまった。

このとき初めて当たり前にあったはずの社会が揺らいでしまうことになる。自分はレースに参加させられていたことに自覚的になったのだ。マジでびっくりした。ちびっこの時に「…え? 僕って僕なん? 他の誰でもなく?」と気づいた時と同じような衝撃だった。

好きで参加したわけでもないレースで頑張り続けられるほど良い子じゃなかったので、他のレースがないかと探し始めた。具体的には芸術とか。すると同年代で僕には及びもつかないほど成功している人がすげえいることに気づいた。

僕は何も考えずに元々用意されたレースを走っていたけれど、もしかすると自分が走っているのはどこかと知ることを恐れていたのかもしれない。考えることが怖くて、とりあえず目の前を進んでいけばいいか~と思っていたのではないかとも思う。楽だもん。

まず自分が生まれながらにレースに参加させられていて、そして死ぬまでそのレースは続いていくのが社会なのだと知ったとき、今までの世界がぐんにゃりとしてしまって、生きる意味や生きていく展望に苦しみを感じた。

それで違うレースに参加しようにも、すでにそのレースに参加している同年代が結果を残していることに焦って、どうしようもない無力感に悩まされた。その無力感を生まれつきのレースで得る人もいると思う。

社会の中にある自分を比較することで直面した問題、それが僕にとっての青年期の問題であり、自我同一性の危機にあたるものだった。そしてたぶん同じような悩みは共有されるものなんだと思う。

もともと参加させられているレースで勝てない(または勝ちたいと思えない)、違うレースでも勝てない(または勝ちたいと思えない)となったら、途端に自分がどうすればいいのか、何のために自分がいるのかわからなくなってしまった。

そこで悩んで悩んでようやくひねり出した答えが、自我同一性を「自分が好きなことを知ること」くらいの意味でとらえること、だったのだ。(ここでようやく主題に返ってきた。長くてごめんね)

自分の好きなものを考えた時、僕は子供のころの体験や疑問が解消される瞬間の快感が好きでたまらなかった時を思い出した。「なんで空は青いんだろう」「なんでコンクリートは柔らかいんだろう」「なんで軍手は片方だけ落ちてるんだろう」というナゼナゼナンデのあれだ。

それを知ることは社会のレースではほとんど意味がないことだから、今までの自分なら放置してしまっていた。でも、考え方を変えた。社会的に価値がなくても自分が楽しいならそれでいいじゃん、ということである。

社会的な価値はどれだけ多くの人に求められるかということなので、そこに喜びを見出せなくても別で自分を幸せにする価値観を持てばいい。頑張って何者かである必要はなくて、自分が何者でもなくても自分が幸せになる行動を選択する勇気を持つことも一つの生き方だと思ったのだ。

でも人によって好きなものは違うから、それによって生き方は多様になることを忘れちゃいけない。

例えばお金を稼ぐのが好きだったりモテるのが好きだったりする人は社会のレースで頑張るのが効率よかったりする。でも僕はそれがそんなに好きじゃなかったから、炊き立てのご飯のあまい匂いをかいだり、自分が毎日の中で考えていることを書き留めたり、本棚の見栄えをよくしたり、絵の練習を始めたり、やりたい好きなことをやることにした。

実際はこんなにきれいな論理の流れじゃなく、いろいろなことをやっていく中で「あ、自分はこれが好きなんだな~」と気づいて、それをやっていくことが自我同一性の確立なのかもと結論づけたんだけど。

自我同一性の確立=好きなことを知ること=価値観の構築、という図式はあくまでも僕にとってだが、青年期の悩みを和らげてくれることになった。将来への不安が消えるわけではないけど、他人が作ったレースで戦うのではなく自分が考えたレースを走り始められた気がする。

「20歳前後で生きる意味や生きていく展望に苦しみを感じて、どうしようもない無力感に悩まされている人たちへ」と題したこの文章だが、あんまりむずかしいことは言っていない。

無理に社会に合わせたりしなくても自分が好きなことをしたいようにしようと、そういう考え方をする人もいるんだと伝えている。もっとも、頭で考えて自分が好きなものをわかる人も少ないと思うので、いろいろと行動して探さないと見つからないから大変だ。

生きていくには社会との関わりは外せないけど、幸せの形まで社会に合わせてやる必要はない。好きなように生きて、どうしようもなくなったら死ぬか~、くらいの気持ちで適当に社会に口出ししたりしなかったり、ほんのりふわふわ生きていきたいよね。

やりたいことがあるなら頑張ればいいし、特にないなら頑張るな。おのおの幸せになれ~。

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