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虹のかけら ~短編小説~ 橙の葡萄酒1

橙の葡萄酒

 

 次の日、仕事が終わった後、待ち合わせていた場所の京都の老舗のパン屋さんの前に着くと、彼はテラス席でノートに漢字の練習をしていた。今日は黒縁の眼鏡をかけている。彼の荷物は多くなかった。小さな焦げ茶色のスーツケースに、いつも持ち歩いている布製の深緑色のリュックサック。それに全ておさまっていた。

 「荷物少ないんだね」

 「はい、スーツケースにはほとんど何も入っていないです。ここに日本からのお土産をたくさん入れて持って帰りますから」

 「でも、飛行機はあるの?」

 「いえ…、ないです、今問い合わせているのですが、つながりません…」

 わたしは店内に入って、アイスコーヒーと朝食用の食パンを買って、彼の隣に座った。テラス席から歩道を見たけれど、ほとんど人は歩いていなかった。二人でこれからのことを話し合った。

 彼はいった。飛行機が見つかるまでは日本にいるということ。彼の仕事はエンジニアなので、日本からでも働けるということ。日中はコワーキングスペースで働くので、ミファさんには迷惑をかけないということ。できれば料理をしたいのだということ。

 「料理をしたい?」

 「はい、料理をするとリラックスするのです」

 わたしの条件はあまり遅くに帰って来なければそれでいい、というものだった。彼が居候することを特に迷惑とは思わなかった、この時はまだ。

 「今日もさっき買い物をしました。見てください、トンカツの材料を買ったのですよ」

 見ると、彼のリュックサックの中には、パン粉にサラダ油、豚肉にソース、卵にキャベツが賑やかにひしめき合っていた。昨日食べたトンカツがあまりにもおいしくて、自分でも作りたくなったのだという。ソースも油も家にあるのに、とは思ったがいわないでおいた。

 「ミファさん、食パンを買ったなら、明日はフレンチトーストを作りますね」

 意外な提案だった。フレンチトーストなんて食べるのはいつ以来だろうと思った。一人ではまず作って食べない。フレンチトーストとかそういった類の食べ物は、誰かに作ってもらうのがおいしい食べ物なのだから。

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 宇宙人が最初にわたしの部屋に来た時も、やはり玄関の前で彼は紐履を脱ぐのに少し手間取っていた。わたしにとっては十分な広さの玄関も、大きな彼にとっては窮屈そうだった。

 この頃から、わたしは彼が宇宙人なのだと強く意識するようになっていた。悉く奏でる生活のリズムが異なっていた。彼は話したい時に話したいことを遠慮なく話した。そして何かを見つけた時は、ミファさん見て、や、ミファさん聴いて、と必ずわたしを呼んだ。

 始め、それはとても疲れるものだった。一度だけ、わたしにもわたしのリズムがあるのよ、と諭したことがある。その時、彼は彼の星の言葉で、ごめんなさい、といった。けれどもよく考えると、彼はただ自分の見つけた美しいものや良いものを共有したかっただけなのだ。

 わたしの部屋の台所も彼にとっては小さく、トンカツを作りながら何度も換気扇に頭をぶつけていた。シャクシャクとキャベツを千切りにし、丁寧に豚肉に下拵えをして小麦粉と卵とパン粉をつけて、そっと油に入れて揚げていた。ジュワジュワという音とともに、やがて香ばしい匂いがしてきた。彼のスマートフォンからは音楽が鳴っている。女性の声で因数分解をテーマにした曲だった。料理をする時はいつも音楽をかけるのだという。

 「できました!」

 それは子どもがはじめて料理を作った時のような言い方だった。わたしがお皿を用意して、彼が盛り付けていく。キャベツにもトンカツにもたらりとソースをかけて、テーブルに並べると中々の出来栄えだった。

 「いただきます」

 二人同時にそういって、熱熱のトンカツを口に入れた。キャベツの甘みと衣のさくさくとした食感とじんわりとした肉汁が口の中に広がった。そういえばトンカツを食べたのも随分と久しぶりだった。横で彼はふむふむと味わっていた。自分の作ったものに満足そうだった。

 わたしたちは食べながら会話をした。スマートフォンからは相変わらず女性が、因数分解、インスウブンカイ、と歌っている。会話をかわしているうちに、この人の前では、食べることに緊張していないことに気がついた。時々わたしは、人前でものを食べることが、不得手になることがある。

 「なんでも作るのは楽しいですね」

 目の前のこの大きな宇宙人は、人の鎧を脱がせる何か特別な力があるに違いなかった。


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