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「軍師 官兵衛」は板挟みのヒーロー?

 先日、引っ越して3年のマンションにようやくテレビをつけたので、大河ドラマ「軍師 官兵衛」を見ました。ちょうど、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出して、キリシタン大名の高山右近が、秀吉よりもデウスを取る、といって所領を召し上げられ、官兵衛に別れを告げにくるところでした。官兵衛も、右近の導きですでに洗礼を受けているようです。そのためか、秀吉の命で九州に移り住むと、秀吉は約束を反故にして、播磨から官兵衛の臣下たちを追い出すことに。
 と、秀吉と徐々に溝が出来ていく、という感じのお話でした。

 ドラマの出来はともかくとして、今という時代にどんな人物のどんな人生を描くことがふさわしいか、ということをすごく考えて選ばれた歴史的人物であり題材だな、と思いました。これまで、大河ドラマでは戦国時代なら「戦国三傑」の信長、秀吉、家康を中心に、彼らと覇を競った武将の、頂点を究めるまでのドラマが描かれることが多かったように思います。最近では、これに女性視点が加わって、バラエティ豊かになりましたが、全体としてみると、ある種のサクセスストーリーですよね。
 でも、「軍師 官兵衛」は少し違うのかな?と感じさせるものがありました。秀吉の軍師として天下統一をサポートしていく一方で、キリスト教の教えに触れ、理想とする道と、主君秀吉に突きつけられる現実との間で葛藤する、という一面も見えてきました。彼は秀吉が「バテレン追放令」を出すとすぐに棄教した、というのが通説で、キリシタンとしての歩みは黒歴史とされていたようですが、当時日本に宣教師として滞在し、戦国時代の日本をリアルタイムで記録した、ルイス・フロイスの「日本史」によれは、京都で没した後、博多で盛大なキリスト教の葬儀が行われた、とあり、終世信仰を持ち続けたともいわれています。

 この大河ドラマでは、どういうふうに描かれるのか、というのも興味深いところですね。

 ところで、

「軍師 官兵衛」の中で、高山右近などキリシタン大名が「デウス」という言葉を使っているのを聞きました。この「デウス」という言葉は、なぜこの時代にこのように使わるようになったか、ご存知でしょうか。

 私が最初この言葉を知ったのは、「回想の織田信長 フロイス「日本史」より」という本でした。文脈から、それは「神」のことを言い表しているとわかりましたが、それまでキリスト教に縁のなかった私は、ギリシア神話の神「ゼウス」と似ているので、頭がこんがらがってしまいました。

 調べてみると、実はフランシス・ザビエルが日本で伝道をはじめたとき、キリスト教の教える創造主である「神」のことを、最初仏教の大日如来に由来した「大日(だいにち)」と翻訳して伝えました。けれども、この訳語が唯一の創造主をあらわすのにふさわしくないことがわかり、カトリックの公用語であったラテン語で神を表す「デウス」をそのまま使うことにした、という訳なんです。ですから、この「デウス」という言葉は、ラテン語で「神」という意味です。

 なぜ「神」という日本語を当時使わなかったかというと、日本人にとって「神」という言葉から連想されるのは、いわゆる祖先崇拝としての神、ご先祖様が死んで神になる、という多神教・汎神論的な神だからです。そうした日本古来の「神」という概念とはまったく違った存在として伝えるために、はじめて日本で伝道したザビエルをはじめとする宣教師は、言葉の持つ意味を大切にしました。日本になかった「唯一」の「創造主」たる神をあらわすには、新しい言葉が必要だった、ということですね。だから、戦国時代から江戸初期のキリシタンは、神を「デウス」といっていたのです。

 この時代の人々の「真摯さ」を感じる言葉の一つです。



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