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「労働は罰」の欧米人、「休むことは罪」の日本人?!

 「労働」と「休暇」というお題を聞くと、ふと、思い出す話がある。巷の会社員や経営者向け研修会などでよく聞く話なので、会社で働いた経験のある人なら一度は耳にしたことがあるかもしれない。これを、私はある仕事で、堀場製作所の創業者が語るのを聞いたのだが、そこで初めて聞いた話ではない。広く日本の経営者の間で流布している話なのではないかと思う。それは、なぜ日本人はよく働くのか、という理由づけについての話であった。

 欧米人の思想の土台となっているのは「キリスト教」である。聖書によれば、アダムとエバはエデンの園で楽しく遊び暮らしていたが、神が食べてはいけないと言われた木から実を取って食べたので、エデンの園を追い出され、「罰として」労働しなければならなくなった。つまり、欧米人にとって労働は「罰」なので、できるだけ働きたくないし、長い休みを取りたがる、というのである。
 それに対して、日本人は神々自身が働いており、労働は善行で徳を積むものだ、だから日本人は長時間労働を厭わずよく、優秀な民族だというのだ。

(その説話の代表例)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=197965

 私も以前は、こういう話を聞いて「そうなのか~」と思い、なぜかはわからないが日本人であることを誇らしげに感じていた。しかし、2000年に洗礼を受け、聖書をよく読むようになって、この説話が聖書の記述から逸れたある種の「思い込み」を土台に語られているのではないか、と思うようになった。なぜなら、聖書によれば、アダムとエバはエデンの園にいるときから、神に仕事を与えられており、その他にも数多く、まじめにコツコツ働くことを奨励する言葉がつづられているからだ。

 聖書の創世記2:15には「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせた」とある。アダムとエバは、エデンの園を耕し、管理する仕事が与えられていたのだ。

 では、「罰」という見方はどこからくるのか。それは、アダムとエバが神にそむいて「善悪を知る木」から実を取って食べ、罪を犯した結果エデンの園を追放されたとき、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。(創世記3:17)」と神から申し渡されたことからきていると思う。ただし、これを読めばわかるように、罰として働かざるを得なくなったのではない。食べるために働くようになり、しかもそこに苦しみがともなうようになった、ということなのだ。エデンの園にいるときは、園の中の果実を自由に食べ、食べ物を取るために働く必要はなかった。

 現実はどうだろう。地球上のどんな民族であっても、地を耕して食物を得ることには苦難を伴う。地を開墾し、耕し、種を蒔き、水をやり、草を刈り、収穫まで守り続ける。これには大変な労力が必要だ。加えて天候不順、害虫、害獣、水害、干ばつなど様々な事象によって、思うように収穫できないこともたびたび起こる。
 つまり、ここで言われているのは「罰として働くことになった」ということではなく、「働くことには苦労がつきまとうよ」ということなのだ。

 しかし、それだけではない。有名な「モーセの十戒」で、神は人に「安息日」といって、その日は一日休んで、何もしてはならない、という日を設けられた。労働には労苦が増したが、休みも与えられたのだ。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もし てはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるす べてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト20・8~11)とあるように、家族はもちろん、奴隷や家畜、町にいる外国人にも休みを与えるよう、すすめられている。働き続けることで、自分自身を見失い、神を見失うことのないようにするためだ。働くことには労苦がともない、働き続けると生産性が落ちることも理由の一つだろう。

参考:キリスト教は労働を否定している? 
http://togetter.com/li/592291

 先に紹介した説話では、「キリスト教では労働は罰だ」という一方で、休みについては何も語っていない。しかし、休むことも神から与えられた知恵であり、だからこそ、堂々と休みを取れるのだ。逆に、日本では休みは会社から恩恵として与えられるもの、みたいな扱いになっていないだろうか? 「キリスト教では労働は罰だ」ということで、暗に「日本教では休暇は罪だ」と言っているかのようだ。

 この説話には、ただ解釈上の問題があるだけではなく、実害があるとさえ私は思う。まちがった解釈で欧米人の労働観を貶めることで、知らず知らずのうちに、この話を聞いた日本人の中に、いわれのない優越感を植え付けている。さらに、働くことは日本人には善行だ、として、労働を対価を得る方法というよりも、無償でする奉仕のように錯覚させてしまっている。そのことで、益を得るのは誰だろう。経営者であって、働く一人ひとりではない。このような説話が、結果的にブラック企業の蔓延に結びついてしまっているのではないだろうか。

 そうでなく、私は言いたい。「欧米人が」「日本人が」と言う前に、私たちはみんな、同じ人間じゃないか、と。すべての人間に普遍的な真理があり、普遍的な価値がある。疲れたら休みたい、就業時間を越えて働きたくない、というのは、別に文化や宗教にかかわらず、どんな人でも当たり前に感じることではないか。その当たり前の感情を否定したところに築き上げた企業文化というものが、よい実を実らせるとはとても思えない。

 実際、日本の労働生産性は主要先進7カ国で最も低く、(http://www.jpc-net.jp/annual_trend/)、しかもそれが長時間労働、サービス残業、休日出勤など他国から見れば異常な労働環境の上になりたっていることから見れば、外国人からは「日本でだけは働きたくない」と思われても仕方ないような現状にある。
 そこには「みんなががんばっているのに、自分だけ先に帰宅するわけにはいかない」とか「自分だけ休みを取るわけにはいかない」、あるいは「自分のせいで周りに迷惑をかけるぐらいなら、遅くなってでも仕事をした方がいい」などの面倒くさい人間関係があるように思う。
「キリスト教では労働は罰だ」「それに比べて日本人スゴイ」という根拠のない流言にまどわされず、自分は、どういう価値観で仕事をするのか、自分自身の労働観を持つことで、そうした面倒くさい人間関係にバリアーを
張れるのではないだろうか。

※トップの画像はサルヴァスタイル美術館(http://www.salvastyle.com/index.html) より
ミケランジェロいよる、システィーナ礼拝堂の天井画。中央に、エデンの園を追われるアダムとエバの絵がある。

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