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プロローグ|いまのわたし|サカキミヤコ

諸国漫遊しようと思う。いつも何か次やることのイメージを思い浮かべた時、比喩的に出てくる言葉は人を驚かせる。

諸国漫遊しようと思う。さらに詳しく言うならば、水戸黄門的な、あるいは松尾芭蕉的な。

もう意図は伝わっただろうか。そうそう、諸国漫遊とはそういうことだよ。

私が何か始める時、いつもこんな調子なものだから、周りの人から見たらきっと、何をしようとしているのか、また、最終的には何をしでかすつもりなのか、あまりにわからないことが多すぎるのだろう。さらに言えば、私にも最終帰着点はどこなのか、始めたときにはわからない。目標などない、そこには方向性があるだけだ。最終形が分からないから動き出すのだと思う。

これまでに色々な人と出会いいろいろな体験をし、それらは全て私の未来づくりのパーツとなっていった。時代づくりがライフワークの私の人生は、すべての瞬間が材料集めといっても過言では無い。

もちろん、生き続ける意味を、人間というデバイスをフル活用して感情や感覚を味わい尽くすことに設定しているので、材料集めの最中でも、人間感覚を味わうことに余念が無い。

新人類と旧人類。近頃はこの言葉について考える時間が多かった。新人類とは、自分の得たい感情を得るために目標と夢を設定し、それを達成する道のりの中で、得たい感覚や感情を回収していくという生き方をする人々のこと。旧人類とは、自分以外の社会や時代や周りの人が設定した目標を達成するために生き、その中でランダムに得たい感情や得たくない感情をゲットしていくという生き方を指す。

私は20代まで、ことごとく旧人類の生き方をしていた。しかしある時点から、新人類型にスライドしようと決めたのだ。

何が1番大きく違うかと言うと、選択肢を作ると言うことを今まではしていなかったということ。

誰かが作った選択肢、誰かが教えてくれた選択肢ではなく、たくさんの人の情報を集めて、自分用にカスタマイズされたお気に入りの選択肢を作るということ。それは、次何をするかと言う行動から、夢と呼ばれるものまで、全てにおいて、今まで旧人類をしていた時は、選択肢を作ることをしていなかったのだとを思い知った。

これは、創作能力があるとかアイディア力があるとかそういう話ではなくて、ただ単に、未知の方向に踏み出す勇気があるのかないのか、という話なんだ。

正解のない、答えのない、どうなるかイメージシュミレーションできない方向に踏み出す勇気。世界中の誰もまだ答えを知らない、それを知るために、たった1人答えを見出しに行く勇気。

これを発動させるかさせないか。新人類と旧人類はこの一点だけが違うのだ。

そう思い切ってからは、今まで考えている、もしくは悩んでいると思っていた時間に行っていたのは、安心を求めるための思考遊びだったと整理できた。

人は確証欲しがる。わからないことをわからないままやるのは慣れが必要だ。一旦それで良いのだと慣れてしまえばなんてことはない。答えに合わせに行くために行動するのではなく、目標を達成するために行動するのでもなく、ただ、自分にとっての答えを生み出すために行動するのだ。

セーブポイントをやり始めてから9ヶ月。いつの間にかまた私には旧人類の時に培った、安心を求める心が芽生え出していたみたい。わからないをひとしきりわかるにしてしまった。イメージしたものは全て現実化した。

そろそろ、またわからない旅路に出る時期がやってきた。今まで培った安心を捨てよ、新たなの材料を取りに行く。まだ世界中の誰もが知らない答えを生み出しに行くんだ。

どうせ人はイメージできたらすぐに現実化できちゃうんだから。1ヵ月位材料集めに専念すればいい。太刀打ちできないものに出会えば良い。また理解できないと言われれば良い。それがよい。

できないものを見つけると、心が騒ぎ出す。まだこの世界は希望に溢れている。目の前の現実にほどよく絶望しながら、未知への航路に帆を立てよ。

<参考:この話の続き、諸国漫遊へいざゆかん。>


広大な仮想空間の中でこんにちは。サポートもらった分また実験して新しい景色を作ります。