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【随想】葛西善蔵『雪おんな』

 雪おんなは大吹雪の夜に、天から降るのである。この世ならぬ美しさの、真白な姿の雪おんなが、乳呑児を抱いて、しょんぼりと吹雪の中に立って居る。そして、
「どうぞお願いで御座います。一寸の間この児を抱いて遣って下さい」
 斯う云うのである。しかし、抱いて遣ってはいけない。抱いて遣ると、その人の生命は、その場で絶えて了う。――
 私は十九の年に一度結婚した。妻は十六になったばかしの少女であった。が一体に私達の故郷は早婚のところなので、十九と十六の夫婦も別におかしい程のことはなかったのである。
 婚礼は二月の初め、ひどい大吹雪の日であった。それに二三日も吹雪が続いて往来が途絶え、日取りが狂って、よう/\その大吹雪の日に輿入れが出来たのであった。
 私達は見合いは済ましていたのだが、私も恐らく彼女も、その晩に初めて見合ったようなものであった。
 私は彼女を美しいと思った。そして彼女はまた如何にも弱々しそうで、いたいけであった。私は真実から愛した。その心持には今日でも変りがない。

葛西善蔵『雪おんな』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

 それからの二十年だ。私は彼女のことを決して思うとは思わないその時分の一人の子が確にある筈である。彼女はどんな風にして育てゝいて呉れるのか私は知らない。当年十九歳の青年が今や三十九歳になった。色々なうつりかわりが其処にある。何と云う女であろうと、私は時々思い出す。潮の流れ、渡り鳥、夏春冬に関けても思い出さない訳にゆかない。彼女のみ知る林檎の花の色、香、そう云ったなかに我等は尚お生の希望を持ち得たのかも知れない。生の希望とは何だ。生と云うものに何処に窮局的な感じのものがあるか、ただ一種の連続じゃないか、如何なる意味に於ても、よしとすることの出来ない一種の連続じゃないか、最も悪しき条件のもとに於ての連続じゃないか――

葛西善蔵『雪おんな(二)』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

 幸福であることが、苦しくてたまらない。誰かを愛し、愛されていることに、心が満ちていく感覚に、強い不安を覚えてしまう。それはきっと、喪失の予感。いつか失うと分かっているのなら、初めから手に入れない方がいい。生命に対する漠然とした不信、嫌悪、忌避、恐怖、畏怖……。生まれたくなかった。喜びが苦しみに変わると分かっているなら、満足が不満に変わると分かっているなら、生きることが死ぬことと同じであるのなら、生まれてきたくなかった。何も無くていい。幸福も、不幸も、人生も、宇宙も、何も無ければいいのに。まだ死なない。だから生きている。生きたいとは思わないのに、死なせてくれとも言えない。昆虫が生死に無頓着なのだとしたら、昆虫になりたい。まだ死ねない。だから生きるだろう。心臓を何かに掴まれたまま、苦しみの中で、生きるだろう。寒い。寒くて、寒くて、たまらない。
 一つだけ知りたい。
 死んだら、もう寒くないんだよな?

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