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【随想】太宰治『散華』

三井君の臨終の美しさは比類がない。美しさ、などという無責任なお座なりめいた巧言は、あまり使いたくないのだが、でも、それは実際、美しいのだから仕様がない。三井君は寝ながら、枕頭のお針仕事をしていらっしゃる御母堂を相手に、しずかに世間話をしていた。ふと口を噤んだ。それきりだったのである。うらうらと晴れて、まったく少しも風の無い春の日に、それでも、桜の花が花自身の重さに堪えかねるのか、おのずから、ざっとこぼれるように散って、小さい花吹雪を現出させる事がある。机上のコップに投入れて置いた薔薇の大輪が、深夜、くだけるように、ばらりと落ち散る事がある。風のせいではない。おのずから散るのである。天地の溜息と共に散るのである。空を飛ぶ神の白絹の御衣のお裾に触れて散るのである。私は三井君を、神のよほどの寵児だったのではなかろうかと思った。私のような者には、とても理解できぬくらいに貴い品性を有っていた人ではなかったろうかと思った。人間の最高の栄冠は、美しい臨終以外のものではないと思った。小説の上手下手など、まるで問題にも何もなるものではないと思った。

太宰治『散華』(短編集『ろまん燈籠』)新潮社,1983

 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします。
 無事、任地に着きました。
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。

同上

 現代は誰も彼も自己愛を肥大させ、ひたすらに自己演出に努め、自分の肯定ばかりに躍起になり、勝者の居ない世界で虚栄の華やかさを較べ合っている。他を認め、他を思い、他に身を捧げることが馬鹿の所業とされてしまったこの時代にもはや幸福は存在しない。幸福とは決して己一人で成し得るものではない。その死の間際にあって思うのは薄っぺらな見栄と虚飾の日々。それが不幸だと、気付かずに死んでいける者はまだ救われている。
 どうして、いつから世界はこうなってしまったのだろう。虚しい。空しい。あまりに無意味だ。あまりに何も無い。足りないものは何だろう。何が足りないのだろう。宗教か。哲学か。芸術か。知恵か。愛か。戦争か。犠牲か。飢餓か。それとも全て満たされていて、満たされているのが却ってよくないのか。自分の頭で考えないとか、操られていることに無自覚だとか、主体性がどうの受け身の姿勢がどうのとか、そんなの下らない。そんなことは言って聞かせてどうにかなるものではないし、そもそも、それが良い悪いという話でもない。そうではなく、死生観、きっと死生観が足りない。生と死を切り離してしまったことが最大の問題だ。死が、遠い国やフィクションの中にだけ存在する架空のものになってしまったのだ。誰も自分が死ぬという事実に実感を持っていない。死が遠すぎる。ニヤニヤ笑って簡単に人を殺すことが、快感にさえなってしまった。それがヒーローになってしまった。笑えるか。人が人を殺す時に笑えるか。現代は安易だ。極めて思慮が浅い。簡単なものしか評価されない。単純な荒唐無稽ばかりが金に換わる。どうかしている。みんな実際どうかしている。

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