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【前編】史上最大の『エルデンリング』批評 世紀の「神ゲー」たる所以を問う

『エルデンリング』は神ゲーである。

それも数年来のビデオゲーム文化にあってその至宝、それが『エルデンリング』である。

しかし困ってしまった。そもそも神ゲーとは何だろう。神ゲーと言わしめるだけの定義は何だろう。仮に『エルデンリング』が神ゲーだったとして、ではなぜ神ゲーなのか、どのような理論で、いかなる比喩をもってして神ゲーと断じられるのか。これが実に厄介だった。

拙稿を含むビデオゲームの未熟な批評にあって、現状こうした大きな課題が残っていることに否定の余地はないだろう。つまり世間的な「これは神ゲー」「これはクソゲー」といった議論の大半に説得力がない。そのためにレビューの「スコア」や「星」の総評、テレビ番組の「テレビゲーム総選挙」にしても、あくまで大衆の最小公倍数的な平均値、それもメディアミックス的なフェチズムや企業へのロイヤリティでしかビデオゲームの美醜を議論できず、またそれに具体的な反駁もない。

そこで少々荒っぽいやり方にはなるのだが、本稿ではまず神ゲーとは何かという定義を行う。これはビデオゲーム全体に求められる程度に普遍的かつ抽象的なもので、かつ一部を除いてその多くは達成が困難な高度な水準として仮定する。そして段階的に、この定義を本作が客観的に議論される上で論ぜられる各要素を神ゲーの定義に沿って、『エルデンリング』の各要素を検証し、『エルデンリング』とは神ゲーであるという証明にしたい。

その性質から、本批評はかなりの長編となり、本稿も前編、中編、後編と3分割して発表していく予定だ。題材こそ『エルデンリング』であるものの、従来のゲームレビューやゲーム批評では見られない、より真に迫った「ゲーム」の「美しさ」について論ずる一つのたたき台になるよう論じたので、『エルデンリング』をプレイしない方や評価しない方にもぜひ読んでいただければと思う。

なお本稿はネタバレを一切含まない。


神ゲーの定義

「神ゲー」とは何か、つまり普遍的な美しくあるビデオゲームとは何か。もちろんこの議論は多様な解釈や定義が含まれる他、主観的な議論に限定したとしても一冊本が書けてしまうので、あくまで「定義の一つ」として『エルデンリング』を論ずる上での略式的に「神ゲー」とは何かを定義付けたい。

ではその「神ゲー」の定義とは何か。ズバリ以下のように置きたい。

「”ゲームをプレイすること、プレイする時間にどのような体験や価値を与えるのかということ”について、十分に熟慮され、メカニクスやフィクション等ビデオゲームの諸要素がこれに基づいた上で構築された、凡ての作品」

この根拠は宮本茂を含む名ゲームデザイナーの多くの発言に共通する上、宮崎英高自身も繰り返し述べた「ゲーム」の理想に基づく。宮崎の定義する理想から宮崎の作品を論ずるのは不公平でないかと思うかもしれないが、少なくともこのビデオゲームの美しさを論ずる定義として多くのゲーマー、あるいはゲームデザイナーが共有し得る普遍性と具体性があると筆者は考える。


例えば、任天堂の『ゼルダの伝説 BotW』の藤林ディレクターは本作の設計として「フィールドを探索することで,ワクワクする体験に次々と出会えて、それを(プレイヤーの)自由な発想で攻略できるようにしたい」と論じている。ハイラルにおける各要素で味わう「探索」「出会う」「攻略」という「体験」に対し、そのバリエーションによって「ワクワク」「自由な発想」という「価値」を与えているという点を鑑みれば、藤林の設計は宮崎の定義する「美しさ」に限りなく準ずる。

同じく、任天堂の『スーパーマリオ オデッセイ』の元倉ディレクターも設計の上で、まず宮本茂の指示として「もっと驚かせてくれよ。心に刺さらないと」という同じくユーザーの側での「驚く」体験と「心に刺さる」価値をベースに、「キャプチャー」のアクション、「オデッセイ号」で巡る各レベルデザイン、また無数の「パワームーン」といった発想が産まれたと語っており、これも「プレイする時間に「驚く」体験や「心に刺さる」価値を与える」上で、やはり宮崎の定義する「美しさ」の一つに批准するものだと言えるだろう。


このように「ゲームをプレイすること、プレイする時間にどのような体験や価値を与えるのかということ」という宮崎の掲げるビデオゲームの「美しさ」の定義は、藤林の『ゼルダ』や元倉の『マリオ』のように外見こそ『エルデンリング』と似ても似つかないものの、しかし公共で評価された名作に十分共通するものであり、従ってこの定義を用いて「神ゲー」を論ずることには十分な普遍性と具体性を有すると評価しても良いだろう。

予め否定しておくと『エルデンリング』の本質的な美点は、しばし言及される「高い難易度」「ダークファンタジーの世界観」では「全く」ない。むしろ「美しくない」ビデオゲームを定義するのであれば、この「体験」や「価値」を「与える」視点を欠けたものであり、仮に「ソウルライク」と呼ばれるような、ダークファンタジーの外見や高難易度の設計のみ「模倣」し、また作者の「フェチズム」や「ブランド」に依拠した作品は「ライク」と呼ぶにも値しない。当然、本稿においてもそれらを根拠に本作を評価しない。


『エルデンリング』の「体験」と「価値」の真髄

「ゲームをプレイすること、プレイする時間にどのような体験や価値を与えるのかということ」の定義からビデオゲームの「美しさ」を論ずる上で、具体的に『エルデンリング』がどのような「体験」を与えるように設計されており、次に、プレイヤーがその「価値」を見出すのか、実際に作品の各要素から検討したい。

まず『エルデンリング』は開発側も認めるように、アクションRPGと呼ばれるカテゴリに類される。アクションRPGは文字通り、プレイヤーの入力に短期的に対応し、主に戦闘や探索を体験するアクションメカニクスと、プレイヤーの意思決定に長期的に対応し、主に戦略・戦術また物語の能動的な読解(ロールプレイ)を体験するRPGメカニクスの、複合的なゲームメカニクスだ。

具体的には、プレイヤーは剣、槍、斧などの近距離武器、杖、弓などの遠距離武器、また盾などの防具を扱いながら敵と戦う要素を「アクション」、また各ステイタスを1ずつ任意に伸ばすレベリング、武器や魔法の蒐集、世界の冒険といった(戦術・戦略的)恒久的なメカニクス、自分のキャラクターを任意に構築する、各NPCと会話し彼らの運命を左右する、各アイテムの説明文や世界観の構造を認識するといったロールプレイを「RPG」と、それぞれ定義できる。

更にこうしたアクションRPGとしてのメカニクスが、ジョージ・R・R・マーティンの「原作」を含む無数の戦後ファンタジーのコンテクストの上で広がり、『エルデンリング』においては広大な「狭間の地」と呼ばれるオープンフィールド(オープンワールド)の上で実装されている。

この「アクション」「RPG」「オープンワールド」のうち、「アクション」と「RPG」のメカニクスは、『エルデンリング』よりも前にフロムが開発した作品『Demon’s Souls』で一定確立されている。宮崎が「我々がシリーズを作り続ける中で培ってきたもろもろ、それを前提として初めて、作ることのできるゲームを作ろう(と考えた)」と主張するように、『エルデンリング』はむしろ既にシリーズで確立したメカニクスを流用してようやくその規模の作品を完成させられたと言えるだろう。

そこで『Demon’s Souls』をはじめとする「ソウルシリーズ」の中で培われたアクションRPGとしてのメカニクスを最初に分析し、次に『エルデンリング』で導入された「オープンフィールド」とそれに沿って導入された諸々のメカニクスを論ずることにより、「ソウルシリーズ」の時点で国際的に評価された「面白さ」の真価とは何か、そして『エルデンリング』はどうその「面白さ」を開花させたのかを、立体的に議論していこうと思う。


「強硬かつ明瞭」な3Dアクションゲームの真髄

アクションRPGそのもののジャンルは古く、1979年の『Temple of Apshai』にも見られる(All Games)し、フロムソフトウェアの処女作『キングスフィールド』も一種のアクションRPGと言えるだろう。そうしたアクションRPGの中で、『Demon’s Souls』から始まる「ソウルシリーズ」はどのように特異なものだったのか、ここではアクションRPG全体の中から鑑みたい。

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