「イレーヌと漂いつつ」(5)

 朝の教室はざわざわと騒がしかった。
「女の子の絵がどこにもないの」
 私や聡子の顔を見るなり、先に来ていたクラスメイトが血相を変えてとんできた。
「どういうこと?」
「昨日、あの絵があったところには別の絵が飾られてるんだけど、学校のどこを探してもあの女の子の絵が見つからないってみんな大騒ぎしてる。普通だったら他の絵と入れ替わってるはずでしょ。なのに、どこにもなくて」
 学校の絵が入れ替わっていることが普通になってしまった学校は全然普通ではなくなってしまった。そんなことを考えながらクラスメイトの話を聞いていた。どこにいったんだろう、イレーヌ。
「大変じゃん」
 目を大きくする聡子。急いでかばんを置いて、教室を飛び出した。私だけ教室に取り残される。他のクラスメイトは、少女の絵の消失に価値を見出している。別に、それは少女の絵である必然性はない。無くなるのであれば、他の絵でもよかった。退屈なくせにフラストレーションだけは蓄積していく受験生の秋にとってはうってつけのイベントだった。イレーヌに必然性を見出しているのは私だけだった。私は焦っていた。
 昨日、イレーヌがいた場所に私も向かう。その一角は生徒が犇めいていた。しかし大きな声を上げる生徒はいない。ひそひそと何かをささやき合っている。よく見ると集まっているのは3年生ばかりだった。部活も行事もなく、確たる目標もないままに大学という機関に送り込まれそうになって主体性と必然性を失いかけている3年生が自己を取り戻したくて絵の前に集まっている。必然なんて、とうに失われていた。私の目の前には、必然しか用意されていなかった。必然を失って自由になった生徒と、選択できなくなることを引き換えに必然を手に入れた私がいた。
 そこに飾られていた絵も、少女の絵だった。その少女はこの学校の制服を着ていた。夏服のセーラーを着て、机に向かっている。でも、教室の机じゃない。もっとごつごつした木の机。見覚えがあった。美術室の机だった。美術室の机に座り、作品を作っている少女の絵。丸い横顔は、細い淵の丸メガネによってその丸みが強調されている。校則通り、一つに束ねられた長い髪が、背中のセーラーカラーを撫でる。美しいという言葉では形容できないが、どこかあたたかい印象を与える少女だった。
 他の絵のように、昔書かれた絵ではないことだけは確かだった。この学校の誰かが書いた絵だ。
「この子誰だろう」
「こんな絵飾ってあった?」
「どこにあった絵なの?」
「私この子知ってるかも」
「あの子に似てるよね」
「あの子にも似てる」
「ていうか私じゃない?」
「違うでしょ」
「なんか気持ち悪い」
「誰がやってるの、こんなこと」
「怖い」
「あの絵はどこにいったの?」
 生徒たちは口々に疑問を発した。誰も解答を用意しない。解答を用意することは必要としていない。疑問を浮かべることが目的だった。疑い、妄想し、答えめいたことを見つけて、忘れる。
 私はイレーヌを探そうとしないクラスメイトを置いて、絵から離れる。美術室へ向かう。
 美術室のドアを開けようとするが、鍵がかかったままだった。鍵は職員室にあるけど、先生じゃないと取り出すことはできない。美術部員でもない私が手に入れることは難しかった。
 目を凝らしてよく美術室の中を見た。奥の方に、イレーヌがいた。薄暗い教室の中でも、少女の絵は輝きを放っていた。その悲しげな瞳が、遠くからでも見て取れる。
 イレーヌは、キャンバスに置かれていた。大黒先生のキャンバスだった。
 大黒先生のキャンバスにイレーヌが飾られているということは、あの少女の絵は大黒先生が描いた絵なのだろうか。そうだとしたら、なぜ大黒先生は、あの少女の絵を描いたのだろう。美術部の生徒なのだろうか。ただの練習だろうか。それとも、作品として大黒先生によって創られたものなのだろうか。
 あの少女の絵が大黒先生によって書かれたものかどうかもわからないし、どういう経緯で書かれた絵かもわからないが、描かれていたのが私じゃなくてよかった、と思っている私がいた。

(続く)

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