「葛城事件」を観る。

 この物語自体に筋も展開も存在しない。あるのは「無理想無解決」という日本文学史においては古き良き文学観。基本的には誰も救われないし、何も変容しない。変容したのは星野純子だけ。死刑囚になった葛城家次男の稔と婚姻関係を結び、定期的に面会を行い、稔の心を開こうとする。しかし、その試みもまったく進展せず、稔の死刑は執行されてしまう。しまいには、稔の父親である清に性的暴行未遂を受ける始末。清の「俺が三人殺したら、俺と結婚してくれんのか」という言葉に対して「あなたはそれでも人間ですか」と捨て台詞を吐き、家を出て行く。順子は葛城家に敗北を喫した。ある種の「諦め」を感じることができたのは順子だけだ。物語が始まる前から壊れていた葛城家の人間には、変容する権利は与えられていなかった。
 現代の虚構では、登場人物の変容が最大のテーマとして求められる。変容する前の状態、そして変容する原因が生じ、変容する。現実の世界でも、変容することを強要される。努力を重ねて、コンピテンシーを習得し、自己を変容させていく。フィクションはその現状を批判し、破壊する役目を担っている、と私は思っている(それも私の押し付けかもしれないけど)。しかし、現状のフィクションは、変容する世界を追随し、無批判に物語を販売している。「ハッピーエンド」「闇堕ち」そんな言葉が巷に溢れる。
  そんな中、この作品では登場人物は変容しない。変容できない。最後、清は自殺することすらも許されない。壊れた家族を象徴する壊れた家の中で、のびたそうめんをすすり続ける。しかし、本来現実というものはこういうものなのだと思う。変容なんてせず、何も変わらないまま、変えられないまま人生は延々と続いていくのだ。

 この映画を観る中でもう一つ思ったことは、「喜劇と悲劇は本質的に一緒なのかもしれない」ということだ。
 葛城家、順子を含めて、全ての登場人物はうまくデフォルメされている。その姿を見ていると、思わず笑いが込み上げてくる。清がスナックで他の客に対して土下座する場面など、ほとんどコメディに思えた。もし、この脚本を東京03が舞台上で演じれば、客は笑うに違いない。
 喜劇も悲劇も、どちらも正常と異常の間にある「齟齬」を捕まえて、クローズアップするという手法においては共通している。違うのは、客が笑おうとして観るのか、泣こうとして観るのかの違いにすぎないのではないか。東京03が舞台上で演じているのは立派な悲劇だ。誰かの悲しみや、誰かの妬み嫉みを増幅させ、そこから笑いを産む。悲劇だって、同じことではないか。
 それだけに、葛城清の持つ暴力性は現実を批判するには十分だった。人は変わらない。清は「壊れた」のではない。「壊れていた」のだ。そして、その清を救う人間は現れることはなかった。順子にもその役目は追いきれなかった。それがこの映画の一番の悲劇だったに違いない。

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