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第43回「旅ですれ違った人との出会いが、人生を運命づけた話」

 NPO法人伊豆in賀茂6では、本年度10月、12月、1月とイベントを予定している。

 まず10月18日(日)には、「インドカレーを食べさせられ放題(マサラワーラー)&インド先住民アートは面白い!(蔵前仁一トークショー)」を行う。https://www.facebook.com/events/381022092913202

 12月には温泉エッセイスト山崎まゆみさんの講演会&ワークショップ、1月には下田在住絵本作家の鈴木まもるさんのトークショー&そば打ち大会である。

 鈴木さんとは、下田に来てから知り合ったが、蔵前さんはじめ、あとのみんなは旅仲間たちである。蔵前さんとは、かれこれ30年の付き合いになるだろうか。

 1990年のこと。その頃、僕は暮らしていたタイを出て、インド経由で陸路を西に向かって旅をしていた。アフガニスタンの入国はできなかったが、パキスタンは今と違って普通に旅ができる環境だった。

 当時流行っていたのは、『深夜特急』(沢木耕太郎著)である。日本はバブル期。多くの大学生たちが本書を携えて、中国、あるいはインドから西に向かって旅をしていた。

 僕はタイにいたので、そんなこと露も知らなかったが、バックパッカーがブームだということはわかった。その6年後には、いまテレビで活躍している有吉弘行が、猿岩石の一人として、『進め!電波少年』という番組で海外を旅して、大ブームとなり、日本人の若者にとって、さらに世界が身近になっていく。

 そんな時代の流れの中で、僕はどうしたら作家になれるか、考えながら旅をしていた。作家になるには、作品を書くしかないのだが、ネタは山ほどもあると自負しつつ、まだ作品を書き出すまでには至ってなかった。

 パキスタン西部の砂漠の中のオアシスの街、クエッタをぶらぶらと歩いていたときのことである。

 道の反対側から、どうやら日本人とおぼしきカップルが歩いてくるではないか。

「日本人の方ですか?」

 どちらからともなく声をかけた。

「よかったら、僕のゲストハウスは、この近くなんです。寄っていきませんか」

 それが蔵前さんと奥さんの京子さんだったのである。

 その後、僕たちはイスタンブールで再会し、泊まったのが同じ「ホテル・モラ」だった。ここには常時20人近い日本人バックパッカーが泊まっており、中東からアフリカに行く者、ヨーロッパから来た者、僕たちのようにアジアから来た者などがいた。

 僕はホテル近所の絨毯屋『ユーリック(遊牧民)』でバイトしつつ、オリンピックを目指してバルセロナに行こうか、迷っていた。金がなかったが、現地で働けばなんとかなるだろう。タイでもそんな感じで2年間働いていたのだ。

 絨毯屋の仕事と言っても、店番である、遊びに来るバックパッカーたちとおしゃべりしていればいい。蔵前さんとは、バックギャモンというゲームに熱中し、店やホテル内で対戦した。そして、おしゃべりが尽きることはなかった。

 蔵前さんは、『ゴーゴー・インド』という旅行記を出版し、みんなから一目置かれる存在だった。数年間計画の旅の最中で、帰ったら、休刊中のバックパッカー向けミニコミ誌『遊星通信』を復刊するつもりだという。

「デーモン(当時はそう呼ばれいた)、お前の話は、抜群に面白いから本を書け、本を。なんだったら、復刊するであろう、うちの雑誌に掲載する。お前には才能がある。おれが保証してやる」

 蔵前さんに保証されても、何の保証にもならないことはわかっていたが、僕以外に、僕の作家としての才能を認める人が、世界で初めて、目の前に出現したことに、僕は大いに勇気を得た。

 そーら、やっぱり俺には才能があるじゃないか。

 というわけで、秋も深まると、僕はバルセロナ行きを止めて、数年ぶりに帰国した。もちろん、作家になるためである。そのためには本を書かねばならない。

 家族に文句を言われつつ、3ヶ月ほど書けて処女作を書き、名前だけでも知っている、あらん限りの出版社に持ち込むも、ほとんどが一方通行だった。そんな中で、草思社という出版社の編集者だけが、こういった。

「君の文章は、講談社風だね」

 僕は、一筋の光明を見た。なるほど講談社か。

 しかし講談社は、日本一の大手出版社である。簡単に相手になどしてくれるはずがなかった。

 それから2年後、蔵前さんが帰国して、『遊星通信』が復刊、イスタンブールでの話どおりに、僕は「岡崎大五」と蔵前さんからペンネームを命名されて、連載を開始した。するとブームに乗ってミニコミ誌が、一般書店取り扱いの旅行雑誌『旅行人』に成長したのであった。

 ついでに『旅行人』を出版社にしちゃおうぜ、だったら、僕の作品も出してくれないですかと、いうわけで『添乗員騒動記』で、僕はついに作家デビューし、角川文庫になってベストセラーとなり、下田に越してきたわけである。

 講談社では、デビュー後15年ほどで出版できた。

 旅での出会いが、こうまでなるとは……。

 その蔵前さんを、ついに下田に呼ぶことができた今回、僕は、感激もひとしおなのである。

 

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