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小説「武光と懐良(たけみつとかねなが)敗れざる者」⑧


第1章 豊田の十郎


六、


館裏手の立木に向かい、深夜木剣をふるう少年がある。懐良(かねなが)、十六歳。
乱れ髪が頬にかかって、直衣(ひたたれ)姿にたすき掛けのまだ中性的な面影の美しい少年だ。指導するのは中院義定(なかのいんよしさだ)だった。
「まずは素振りの繰り返し、体幹が定まってくるまで、もっと、もっと!」
貴族のくせに鉄漿(おはぐろ)もつけぬ変わり者の義定は剣術の使い手で、懐良を指導する。強くなってもらいたかったが、皇子である懐良に対して義定には手加減があった。木剣をふるいながら、懐良には燃えるような思いはない、課せられた使命に切実な感情は抱けない。思い返す後醍醐帝(ごだいごてい)の面影はただ不気味なばかり。
「小休止!」
息が上がり、懐良は木の根方によろけ込む。
それへ義定が清水を満たした竹筒を差し出す。
ごくごくと喉を鳴らす懐良を励ますように声をかける。
「息が整い、腕に力が戻られたら、再度木剣をふるいましょう」
汗をぬぐいながら中院義定が見返っても、懐良には反応がない。
気持ちは沈み込んでふるい立つことはなく、ぼんやりと座り込む。
懐から取り出した紙のひな人形を手の中に見つめ、母の二条藤子を想い、涙がこぼれた。
親王にしくしく泣かれ、義定はなすすべなく、成人しようかといういい年をして、とは思うが痛ましさが先に立ち、顔を歪めて立ち尽くすのみ。
そこへ冷泉持房(れいぜいもちふさ)が義定を呼びに来た。
「義定さま、吉野よりの使いが到着いたしました」

薩摩の国谷山郡司谷山隆信の居城谷山城は小城だった。
足利尊氏の武家方、島津氏の居城東福寺城が北方九キロの地点にある。
征西将軍懐良一行の九州計略のための拠点である。
五条頼元と息子の良氏、公卿武士の中院義定、冷泉持房らが城内御所の館内に居並び、それへ忽那義範(くつなよしのり)からの密使が手紙を届けて来て、一同で回し読みし終わったところだった。
高燭台の炎が揺れ、頼元が静かに皆を見まわして言う。
「後醍醐帝の後を受けられた後小松(ごこまつ)天皇から、少しも早く南朝に味方する勇者を伴って吉野へ戻ってほしいというお手紙じゃ」
「…再三のご催促ではあれど」
皆の顔は浮かない。
一三四六年 正平元年、薩摩谷山城の懐良親王は成人すべき年ごろである。
征西将軍一行が後醍醐帝の命を受けて比叡山を出発してから早くも十年が経過している。
懐良親王を西へ向かわせた後、比叡山を降りた後醍醐帝は足利尊氏に偽の三種の神器を差し出して恭順の意を見せながらも、花山院(かざんいん)への軟禁状態から女装して逃れ、 楠木(くすのき)一族によって吉野へ入り、そこを足利一味打倒の拠点とした。
しかし、尊氏は三種の神器はわが手にありとし、光明寺統を立てて皇室となした。
天皇家に南朝、北朝という二家が並立する事態となり、戦乱は益々収拾のつかない事態となってきたのだった。南朝は後醍醐帝がシンボルだったが、北朝側は実質足利尊氏が支配しており、武家諸氏たちがカリスマ尊氏に率いられた。
北朝側の天皇には尊氏の傀儡(かいらい)、後光厳(ごこうごん)天皇が即位された。
新進の武士勢力の武力に対し、宮方はひ弱で勢いがない。
後醍醐帝の頼みは各地へ派遣した皇子たちだったが、味方についてくれる有力武士団を探す旅は困難を極め、恒良(つねなが)親王、尊良(たかなが)親王、義良(よしなが)親王も次々と敵に倒されていった。
その後醍醐帝は病を得て先年崩御(ほうぎょ)されている。五十二歳だった。
五条頼元や親王侍従の者たちは深く落胆した。
頼元は数日間喪に服し、冥福を祈り続けた。
「しかし、我らはそれでも使命を忘れることはできない」
確認するように頼元が言う。
吉野の後小松帝在所はわびしいもので、南朝の希望は唯一九州に派遣した懐良親王ただ一人となっていた。後醍醐帝の後を受け帝位を継いだ懐良の兄の後小松帝から何通もの手紙が五条頼元に届けられたが、懐良親王が巻き返しの軍勢を組織して東上することを期待するものばかりだった。
「なんとしてでも親王さまを奉じて戦う武家を味方につけねばならぬ」
「と、四国からこの薩摩まで前進しては参ったが」
中院義定(なかのいんよしさだ)が腕組みして瞑目した。
「新帝を守るのは北畠親房(きたばたけちかふさ)、楠木正幸達、わずかな悪党一味のみ」
冷泉持房は、彼らを助けるためにも、少しも早く北朝勢を平らげ、分裂したこの国を吉野に統一する。その使命を懐良親王に果たして頂きましょう、と声を励ました。
無論、五条頼元にも絶対の悲願となっていた。
とはいえ、現実の厳しさは誰の胸をも暗くさせている。
「頼元殿、その後、九州武士団糾合の呼びかけに対する反応はいかがでござる?」
反応が良ければとうに耳に入れられているはず、と思いながらも義定が訊いた。
「何度も令旨を 発してはおるのじゃが、肝心の阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)家が動かぬ」
「様子見しているのでしょうね」
冷泉持房もため息をつきながら言う。
「平安時代から阿蘇社大宮司を世襲する肥後の名族阿蘇家こそ、後醍醐帝の求めた宮方に味方してくれる実力ある武家の条件を満たしておる、…しかし」
「しかし、その阿蘇家からしてそのざまではのう」
と、この頃の頼元には失望感がつのっている。
「武士は所領安堵の為にいくさするのであり、利のある方へ付きたがるもの」
持房が武士という生き物への失望感を滲ませて言い、控えたこの城の城主谷山隆信をちらりと見やる頼元。気を悪くされては困る、という頼元の本音が滲む。
この谷山もまた弱小でいつ裏切るか、と苛立つものの、頼るものは今は谷山以外にない。
「このままではまずい、…島津の脅威からいつまで持ちこたえられようか」
中院義定が唸り、谷山隆信が膝を進め出た。
「ご心配召さるな、不肖谷山隆信、全力でお守りいたす」
と、再度忠誠を誓う。
「お頼みしますぞ、谷山殿」
谷山氏は律令制下の官人系土豪であり、その荘官職としての既得権益は幕府側に立った島津氏に脅かされていた。谷山氏としては宮方について所領安堵(しょりょうあんど)を狙う立場だった。だが、所詮田舎土豪に大勢を変える力はない。

その後、頼元は一人で懐良親王の部屋へ伺候した。
「宮さま、吉野から手紙が参りました、入りますぞ」
明かりがついているのでまだ眠ってはいないとみた頼元だったが、はっとなった。
御簾(みす)の巡らされた部屋の畳の上に端座した懐良の美しさはまさしく白面の貴公子だった。自ら育て上げてきた頼元でさえ、毎度思わず息を呑んだ。
その白面(びゃくめん)が九州の荒くれ武士への恐怖と不信感を隠し、強張っている。
「…上方の情勢は思わしうありませぬようで、…少しも早くこの九州にお味方の勢力を作り上げ、東征を急がねばなりませぬ」
そう言われて、しかし顔を上げない懐良の手元には、母の藤子から渡された紙のひな人形があるのを見て取る頼元。常に触られ、もう擦り切れている。
「しっかりなされませよ、宮様」
いつしか師としての口調になっている頼元は、思い返す。
紀伊半島を海へ急いでいたみじめなあの日の懐良の面影。
四国忽那一族に匿われた日々、まろは都へ帰りたいと泣いていた親王。
そして遅々として状況の変わらぬ九州での日々。
先を思うと目が眩みそうな絶望感がこみ上げ、この貴種の担わねばならぬ重圧を考えると、思わず目頭が熱くなる。しかし、このお方を担ぎ通す以外にない、と思う頼元だった。
「我ら宮方へ味方せよとの呼びかけはいくらでもできまする、されど目の前の宮様に皆を率いていくだけの器量がないとみれば、続きませぬ、…お心を強く、…分かりまするな?…宮様次第なのです、…あなたのご器量こそが」
ひな人形を見つめる懐良の顔が苦しく歪んだ。
その表情を見て、これ以上言うのは酷だと、頼元は胸を掻きむしられる。
誰かが必要だった。現状を打開できる強い武者が。
しかし、そんな武者が一体どこにいるというのか。



《今回の登場人物》

〇懐良親王(かねながしんのう)
後醍醐帝の末子。南朝巻き返しの最後の希望となって征西将軍とされるも流浪の果てに菊池武光に迎えられ、やっと希望を見出す。武光の支えで九州を統一、やがて東征して皇統を統一するか、九州王朝を開くかの岐路に立たされる。

〇五条頼元
清原氏の出で、代々儒学を持って朝廷に出仕した。懐良親王の侍従として京を発ち、親王を薫陶し育て上げる。九州で親王、武光の補佐をして征西府発展の為に生涯を尽くす。

〇五条頼氏
頼元の息子。

〇中院義定(なかのいんよしさだ)、持房親子
公卿武士、侍従。

〇池尻胤房、坊門資世
侍従たち。

〇谷山隆信  薩摩谷山城主






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