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その人と会っているときの自分が嫌い

友だちと楽しくおしゃべりして帰ってきたのに、気づくとがっくりと疲れているということがある。
別にその人のことが嫌いなわけではない。いや、逆に魅力的であることのほうが多い。でも、「その人と会っているときの自分が嫌い」という友だちがいることに気づいたのは、何年か前のことだったと思う。気づかせてくれたのは、かっちゃん(仮名)だった。

かっちゃんは姉御肌で、多くの人に慕われていた。彼女から「ごはん食べよ」と誘われるのは鼻が高くて、上機嫌で出かけていったもんだ。
かっちゃんは話のテンポがよくて、口開けから閉店まで居座っておしゃべりをすることも多かった。夢中で、しゃべりつづけて名残惜しげにさよならを言って、電車に乗る。

するとどうしたことだろう。帰り道の電車の中で猛烈な自己嫌悪が襲ってきて、家につく頃にはヘトヘトでベッドに倒れ込み、翌朝は鉛を抱えたような気分で目が醒める。それを何度か繰り返した。
繰り返すうちに、ああそうか。私は彼女が苦手なのではなくて、彼女といるときの私が嫌いなのだということに気づいたんだった。


話が上手だから、思いがけないところまで私生活を話してしまう。同じ分だけ、さほどよく知らない人の人生を噂して査定する。自分のペースの中にいれば話さずにすむこと、口にしなくてもよい言葉が飛び交い、その言葉で自分の深いところが静かに傷ついたり、疲弊していくのだと思った。
自分からどんどん話しているのだから、それはかっちゃんのせいではないのだ。ただ、どんなに魅力的でも、一緒にいたら「自分の嫌な部分があぶり出されていく」という人がいて、そういう人とは距離を置いたほうがいい。そんなことにやっと気づいたのは、その頃だったと思う。

かっちゃんとは程なく疎遠となったけれど、「嫌いな自分」が出現しがちな付き合いはいくつか残った。少しづつ、少しづつ整理して、やっと自分ペースでいられるようになったこの頃。
旧知の友人から久しぶりに連絡があって会う約束をした。おしゃべりが上手で快活で、話題も豊富な人だったから、楽しくて夢中でおしゃべりした。そして2時間ほど経った頃に、「あ」と気づいた。不思議な、鉛を抱えたような重い感覚に覚えがある。目の前にいる彼女は共通の知人の離婚の顛末を話しているところだった。

離婚訴訟、財産分与、不渡手形。ドラマを見ているような噂話は刺激的で面白い。でも、私はその人のことは1,2度見かけたほどで、ほとんど知らないのだ。
さっき夢中で話した私のプライバシーは、どこかでこのように話されるのだ、と思った。別に話されて困るようなことはないけれど、特別な人以外に私生活を話すことも、聞く必要のないよく知らない人の話を娯楽にするのも、もう私には必要ないはずなんだった。やっと自分ペースで暮らせるようになったのに、うっかりじゃ。

噂話は魅力的で求心力があるから、おしゃべりに花が咲くと無自覚のうちに引き込まれてしまう。でも、こぼれ落ちてしまう黒感情を楽しめるほど、もう私は若くはないのだと思う。

一緒にいることで嫌な自分が現れてくる人とは離れる。無理して誰かと一緒にいるくらいなら、ひとりでいればいい。そして一緒にいるといい自分が現れる人と時間を重ねる。人生折返しほどでやっと気づいた、簡単だけれど大切なこと。
今日もいいペースで生きられますように。

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