大室山を知る~伊東市文化財センターへ
午前中は御用で、伊豆半島の付け根に位置する函南町へ行きました。今まで函南との接点はなく、沼津から下田を結ぶ伊豆半島の中央を走る伊豆縦貫道を駆け抜けるくらいで、降り立つのは初めて。
富士山を望む風光明媚な地勢と、伊豆半島の数少ない酪農の里・丹那盆地。大きな地層のズレを目撃できる丹那断層や、日本の近代化を支えた韮山反射炉、月や惑星や銀河など宇宙を見上げる月光天文台など。。視界に広がる広大な自然景観はもちろん、個人的に気になっていた地域です。
帰り道、かんなみ仏の里美術館に立ち寄り、伊豆半島北側の古道の第一歩を踏み出しました。次来た時は、源氏再興の密議を行った寺と伝えられてる源頼朝ゆかりの高源寺へ続く道を歩いてみようと思います。
大室山の歴史
地域住民とアーティストが出会うきっかけをつくり、新たなプロジェクトの創出などコミュニティの未来づくりに寄与することをめざした「マイクロ・アート・ワーケーション」。
今回お迎えする旅人さんは、アーツカウンシルしずおかを通じてマッチングされたおきなお子さん。伊東駅前で合流し、伊東市文化財センターへ。
3月6日に開催される大室山山焼きを体験する前に、大室山の成り立ちや文化や歴史を学ぶため、伊東市教育委員会の金子浩之氏を訪ねました。
ここは伊東市内の遺跡から出土した土器や遺物を収蔵してる施設です。伊東市史の編纂をしています。
静岡県下全体で見ると縄文時代の人口分布は富士川以東に多く、西側ではあまり見ることができません。例えば、伊東市には120箇所くらいの遺跡があるのですが、そのうち約100箇所が縄文時代の遺跡となります。
大室山の噴火を年表に表すと縄文後期初頭、約4000年前にありました。実は4000年前の一回の噴火で、100箇所くらいあった縄文人の集落からほぼ人がいなくなってしまいました。
いえ、死に絶えることはないと思います。一般的な噴火というのは局所性です。だから火山の噴火は群発地震などの予兆があるので、よっぽど激しい火砕流なんかが起こらない限りは「まずい!」となったら逃げる時間は確保できるはずなので、おそらく人は移動してるでしょう。
それで、4000年前に噴火した後、何百年かすると人の生活が戻ってきます。それまでの文化に比べると土器が小柄になり、しかも凹凸がなくなる。初期の縄文土器は大きいのですが、後期になると小さくなっていくのです。
おそらく縄文中期以前は宴会用です。集落全体や他の集落から来たお客さんを含めて、あの大きな土器を使って宴会をしているのです。
ところが、土器の砂の成分を見ると伊豆産の土器ではありません。大室山に限らず基本的に伊豆半島は火山島であり、その火山活動の時期も新しいのでそもそも伊豆では材料となる粘土が採れないのです。
その環境は伊豆諸島も同じで、島を形成するのは基本岩石と砂です。それで溶岩の中には稀な環境で黒曜石という石が出来上がります。それは天然のガラスと呼ばれ、発色が黒くなってるだけでガラス成分は全く一緒です。
では、なぜ縄文土器があるのか。例えば、粘土の豊富な甲府盆地の人々との交流があったのだと考えられます。粘土と黒曜石を交換したり、その土器で一緒に猪鍋食べたり。
本当のオリジナルの日本人は縄文人なんだけど、弥生時代になってくると、大陸から渡ってきた人々が独自の伝統を持ってやってきます。
この時代には大室山の噴火の影響はほとんどなくなり、元の自然環境に戻ってます。カツオ、マダイ、ウツボなどの骨があることから現在の食文化とほとんど変わらない環境であることがわかります。クジラやイルカの骨もあります。
大室山の成り立ち
紫色は大室山、火山山体です。山体から流れ出た溶岩はオレンジ色です。溶岩の流出口は赤色で、大室山から流れ出た溶岩は一方は城ヶ崎海岸を作り、もう一方は伊東市街に流れ、その一つは一碧湖の湖の出口を塞ぎました。
もう一つ、松川の源流は辿ると大室山のすぐ麓まで来ることが分かりました。以前に津波の痕跡を探すため伊東市街地でボーリング調査をしたところ、上の方には真っ黒い砂、大室山の火山砂が2mくらい積もっていたのです。
この源流が火山砂で埋もれ、雨が降るたびに街中へ向けて砂を運びました。それでオレンジビーチという海岸は黒い砂のビーチなのです。それに比べて宇佐美は褐色の海岸で少し明るい色をしています。ということは大室山の噴火はここまで影響していないということが分かります。
大室山の山焼き
人工的に草山にしています。繰り返して山焼きをすることで茅しか生えない状態になります。その茅をどう利用するかというと一番は緑肥です。茅を刈って畑に敷き込む。かなりの比率で自然にできる肥料を目的としていました。
もう一つが屋根を葺く材料としての利用。もう一つは俵、一番太い茅を選んで炭俵を作っていました。それからもう一つは「苫(とま)」。船に乗せる荷物を覆って雨露をしのぐ、今でいうブルーシートのような役割を果たしていました。
自然の手を入れない森には茅が生えません。日当たりの良い炎天部が確保できないので、屋根に使うような大量の茅が必要だとしたら一定の面積で火入れを定期的にする必要があると言えます。
つまり、どの村にも草刈り場は必要であり、どの村でも山焼き(野焼き)はされていたのです。なければ生活はできないのです。
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火山と密接な関係がある浅間信仰についてなど、興味深いお話もありましたが今回はここまでとします。大室山の山焼きに向けてスペシャル講義を受けることができました。