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有限会社自転車操業7・落ち着くんだ、双葉くん

さて、双葉が富子先生から貰ったのは片手のひらにすっぽり入る位の南部鉄器の急須。

「これでお茶を淹れると不思議と味がまろやかになって美味しくなるんや」

と桐の箱ごとそれを貰い、

最初の三日間は添え付けのアルミ製の茶こしに茶葉を入れて薬缶で沸かして湯冷まし代わりのご飯茶碗に入れ、

少しぬるくなった湯をその急須に入れ飲んだお茶は本当に甘味があって美味しかったので帰宅するとすぐにその急須で淹れたお茶を飲むのが双葉の癒しのひとときであったが…

一週間もすると重い鉄の急須を持ち上げるのに手に痛みを感じ、使うのを止めてしまった。

「そりゃ急に事務仕事するようになって、キーボード入力で腱鞘炎起こしてるんじゃ・ないかい?
いいもの貰ったからって無理に恩を感じて使い続けることないと思うよー」

と日曜のファミレスで一緒にランチする本郷さんは前のバイト先のお弁当工場で出来た友達で23才のシングルマザー。

彼女はミートソースの付いた口元をナプキンで拭ってから見てみてーと自分のスマートフォンを双葉に渡し、オレンジ色の髪をした青年と何やらオレンジみたいな果実狩りをしている写真を見せつけてくれた。

「パプリカのファンイベントでね、愛媛までポンカン狩りに行ったんだよ!一緒に映っているのはドラムのイチヒロくん。羨ましいっしょー?」

説明しよう。パプリカというのは大阪、京都、奈良などのライブハウスで活動をしているそこそこ歌と演奏がうまいインディーズ系のパンクバンドである。

メンバー4人の全員が大阪の国立大獣医学部の学生であり彼らは本気でデビューする気は無く、趣味とお小遣い稼ぎと動物愛護のために地味に活動し、獣医師免許を取ると解散する予定の、

地味に咲いて沿道の人びとを喜ばせ、地味に散る野の花なのである。

「この寒い中ファンと一緒に愛媛でポンカン狩りしてくれるなんて…どれだけフレンドリーなバンドや!で、本郷さんはいくらパプリカに投資したん?」

と尋ねると本郷さんはうひひひひ、と笑い、

「四年前は給料全部注ぎ込んでCD買うたもんよ」
とわざとパーカーで顔を隠しながら自分の金銭感覚の無さをカミングアウトした。


「つまりはお友達の本郷さんは、獣医学生バンドパプリカのタニマチってことだね」

と翌日の休憩時間に本郷さんの話を聞いた敦の言葉に近年の相撲ブームでよく聞く単語があったので、

「あの、改めて聞くんですがタニマチってなんですか?」

と尋ねると

「相撲取り、スポーツ選手、芸術家、アイドル達を無償で支援するスポンサーってとこかな?

明治時代、大阪の谷町の外科医が大の相撲好きで治療しに来た力士を無償で治療した事から支援者をタニマチと呼ぶようになったって説あるけどね」

と敦は言葉を切って皮肉な笑みを浮かべながら

「今じゃおカネ目当ての悪いプロデューサーが女の子たちをひと束いくらで売り出して、

『親しみやすさ』という名のバーゲンセールな商法やりだしたもんだから、アイドル一人の価値が大幅に下落し、ファンというタニマチの質も悪くなった。
…本郷さんが推してるバンド、パプリカは芸能界目指してなくて正解だよ。

この一般のファンをタニマチに仕立てた商法は、人間ひとりの価値を無料以下《ただいか》に下落させかねない危険性も孕んでいるからねえ」

と本郷さんが双葉にくれたポンカンを果物ナイフで器用にくし型に切り分けて一口かじると、思わず甘っ!と唸る。

「でしょ?沢山貰いすぎて持ってきちゃいました~。あ、下の自転車屋さんと、富子先生にもあげちゃおう、っと」

双葉のその思い付きを聞いて敦はおいおい、と手をあげて、

「下のお店はいいけど、東村富子先生の所に連絡も入れずいきなり行くのは失礼なんじゃないか?
それにあの家は…あ、いや」

とそこで敦は口ごもり、富子先生の話は打ちきりとなった。

…なんか、九条先生にしては珍しく煮えきらない態度だったなあ。

と双葉は敦の忠告どおり仕事の帰りに富子先生のお宅に電話をかけて、

「ああ、ポンカン!今の時期が一番甘いもんねえ~寄ってってええよ」

と許可を取ってからポンカンが14、5
個入った袋をぶら下げて富子先生の自宅兼華道教室のインターホンを押した。

反応がない。

ここの鍵はいつも開いている事を知っている双葉はからり、と玄関の引き戸を開けて顔だけをひょっこりと中に入れ、上がり口から居間を仕切るふすまは全開になっていて居間の内部が丸見えになっている。

六畳の和室の畳の上には座卓とその両側に藍色の座布団が二つ敷かれていて、その向こうには、

珍しくセーターにスカートを履いた洋服姿の富子先生がおお向けに倒れていて、その首にはストッキングが巻かれていて…

なぜかその時の自分は冷静だった事を双葉は後になって不思議に思う。

双葉はバッグからスマートフォンを取り出して上司である敦に電話し、いま目の前で起こっていることを説明すると、

「…まずは落ち着いて、深呼吸だ。君は殺人事件の第一発見者になった訳だから決してその場を動かず、何も触らず110番すること。僕もそっち行くから」

敦との電話を切って110番に通報した後で体の芯から震えが起こり、双葉は自分の両腕で震えを押さえ込んで冬の夕方の玄関先で敦と警察が来るのを待った。

富子先生、なんでこんなことに?

双葉の手からビニール袋がずり落ち、見事に色づいたポンカンが一個、玄関先から地面に転がった。

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