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私は物語

自宅近所のいつものうどん屋が定休日だが、あいにくこちらは毎日昼頃にはちゃんと腹が空くので代わりに道向かいの黒田屋の日替り定食を食べる。
日替り定食のサービスに付いてくるコーヒーはホットかアイスかを選べると言われ、ガラス製のピッチャーに入っているアイスコーヒーが置かれていることを店員の肩越しに見つめることができ、アイスで、と言う。
定食を食べ終えて飲んだアイスコーヒーは、思っていたより濃く、これは氷を入れてちょうど良い濃度かもしれないと思わせるが私は氷入りの飲み物はあまり好まないのでアイスコーヒーを味わうこともなく全て胃に流し込んで店を出る。
家に帰る道すがら、いつも客が店外にはみ出している盛況な八百屋の裏路地を通ると大型トラックが横付けされていて、昼休憩らしい運転手がこちらを見ている。
どこか習近平を思わせる男は、その前を歩く私をじっと見ていて不快感を覚えるが、ひょっとして好きなの?と思ってしまいふっと笑い声が漏れる。
彼に聞こえたろうか。

ところで読書感想文。
近頃月1で読書会を開いていて、前々回参加者のきょうへいさんが持っていた本をお借りし読んだのが「記憶がウソをつく!」。

養老孟司と古舘伊知郎の記憶に関する対談をまとめた本だ。
核心めいた話がおしなべて愉快な語り口で並列されており、さらりと読めてしまう内容だが、流麗で理知的な二人のやりとりの中では下手に哲学的な領域に突っ込まないだけにこちらが色々と想像する余地のある程好さ。
中でも人が物事を記憶する際にはほぼ無意識にストーリー性・物語と一緒くたになってしまう、そしてその物語は「嘘」で出来ていると言い切っており、激しく胸を打つ。

古舘 わざとではなくて、無意識のうちにいろいろ脚色して作り上げてるんだ。
養老 記憶に限らず、人間というのは物語を作るものだっていうのは、ここ数十年で一種の常識になってますね。物語というのは、別の言い方をすれば「嘘」だということです。(中略)要するに、過去の出来事を上手に繋げて面白い物語に仕立てられるほど記憶に残るんですよ。

「記憶がウソをつく!」扶桑社 70頁 

前述の私の昼飯時の物語も、出来事と言えそうな部分は「生島が黒田屋で日替り定食を頼み、アイスコーヒーを飲んで店外に出ると、トラックの横にいた中年と目が合い、笑って前を通り過ぎた」くらいの内容になりそうだ。
その出来事を別の人が体験していたら当然、全く別の物語が発生するはず。
そう考えると物語の発生には人格が存在し、人格の土台にはその人のすでに記憶されている物語(嘘)が延々と連結されている。
では、その出来事=外部情報の知覚が事実であり真実であり現実なのかというと養老はそこもあてにならないと言う。

 それをもっと一般化して言うと、我々が知っていることは、自分の脳の中だけなんですよ。ものが見えているとか言っているけど、そうじゃない。見えているような刺激を与えれば、真っ暗闇だって星が見える。マンガによくあるじゃないですか、頭をぶん殴られて星がチカチカって。要するに、同じ刺激を入れてやればいいんです。我々が認識している世界自体が、完全にヴァーチャルなんです。我々が知っていることは、完全に脳の中で起こっていることだけ、初めから。それは身体のことについても同じなんです。
古舘 ああ、なんか仏教的ですねぇ。「色即是空 空即是色」みたいだ。

「記憶がウソをつく!」扶桑社 172頁

我々が知っていることは脳の中だけと言い切られると、反論の余地がない。
こういう話は学生時代に「銃夢」を読んだ折にノヴァ博士が同じこと言っててその時点で既に多少なりと思春期の実存的危機を乗り切っていた私は「ああ、知ってる」と思っていたけれど、近頃私は物語を殺そうとしていて、40を過ぎてようやく、私が感じ取れるものがほぼ虚構であること自体を身体感覚として腑に落とせた気がする。
物語を殺すというのは、何かを見た、聞いた、感じた時に、そこに物語を紡がないように心掛けていて、こういう暮らしをしていると全然何も文章に言葉にならない。
世界はありのままであるという物語の中に生きようとしているだけとも言えるから、やはりこの暮らしそのものが虚構だろうかと思うとやはりそうだろう。

では虚構は虚構として、それに対して現実とは何かについて回答していくというのが美術の一つの機能としてあると思っている。
私が感じ、私がつむぎ、私が表したものは私の現実であると言うことはできるが、あなたの現実になるかはあなたが決めることができる。
同様に誰かの表したものを現実として取り込むか、そうしないか、私が決めることができる。
こうなってくると現実か虚構かは全て任意であってその証明などというものは全く必要なさそうで、そこに客観などというものは有り得ないし、事実私の現実世界では存在していない気がする。
冷静で広い視野はあっても、それは多分私の高次の認識能力でしかなく、当然脳の活動領域を出ることはない。

ところで、物語の主軸を為す言葉というものについても、本に面白い話が書かれていた。
私の理解力を元に要約すると、本来、目と耳は全く異なる感覚器官だけれど共通する領域があり、そこには言葉がある。
目で文字を読んでも日本語として聴覚に変換しうるし、耳で聞いた言葉を日本語という文字・視覚情報に変換することができる。
共通し得ないより抽象度の高い視覚情報は絵画であり、抽象度の高い聴覚情報は音楽である、つまりどちらも言語化することができない云々。

山を眺めたときに、山という言葉が頭の中に飛び出すし、ともすれば美しい山、雄々しい山、今日は遠くの山まで見通すことができて気持ちがいい、といった言葉が紡ぎ出され、斯様に情動まで乗っかってくるとそれはもう人の物語として走り始める。

こういった外部刺激に反応し、自分の感覚・情動に振り回され、いちいち精査する行為は楽しいものでもあるが実に疲れる。
しかし感覚に自覚的になることで、自身に湧き上がる物語に右往左往していた状態から、少し俯瞰して距離を保つことができるだろう。
距離を取って、物語を流し見し、新しい刺激にいちいち物語を紡がないようにすると時々、日常に沈黙が訪れる。
これは物語に没入しているときとは少し違う沈黙ではないだろうか。
私の中の物語は永遠に湧き上がるものではなく、枯渇させコントロールできることが分かってくるようになる。

目を瞑って、部屋であまり刺激のない状態で一人座り、その沈黙の瞬間を味わう時、もちろん喚起される物語(視聴覚情報)も記憶も感じ取れないが、今現在の意識が失われるわけではない。
また、五感が失われるわけでもなくただそこに接続する何ものをもない(何もしない)状態と言えばいいだろうか。
私はこういった意識の状態をまだわずかな時間しか保持できないが、どうも物語を取り去ったそこに意識の源、私の源があるような気がしてせっせと瞑想に励んでいる。

なんでもかんでも神秘主義、瞑想、真我、ARTにつながってしまう物語。
いつか本当にたどり着くような、その過程を楽しんでいるようなめんどくさがっているような、多分全部ひっくるめて遊んでいるのだろう。
こうやって文章化し、物語にする遊び心も尊いが、そこにいちいち執着せずにさっさと先に進む心根の涼しさこそげにありがたき。

語るのをやめよ、語るのをやめよ。そうすればわからないことは存在しない。
根に戻れ、そうすれば意味が見いだされる。
光明を追い求めよ、そうすればその源を見うしなう。……
真理を求める必要はない。ただ期待をもつのをやめることだ。
セングスタン『仏教経典』

「覚醒への旅」ラム・ダス著、萩原茂久訳 平河出版社 145頁

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