書きたいことは、もうあまりない。

大学卒業までの22年を過ごした町の駅ビルの2階、10年前から変わらずにあるタリーズから、バスのロータリーを見下ろしていた。

地元では名の通ったミニコミ誌に、文芸部の後輩の活躍が掲載されている。

私だって、と思う。

私だって、かつては書きたい物事が湧き水のようにあふれていたのだ。

というよりも、書くことでしか世界に触れられないくらいに弱っていて、文章にすることでようやく自分の形を保っていたように思う。

高校1年のときに高校生向けのコンクールに出した小説で、ちょっとした賞をもらった。

中学時代に人間関係に失敗して、空気みたいに過ごしていたところから、いきなり「お前の話に価値がある」と認められたような気がして、それはもう舞い上がった。

心臓がバクバクと脈打って、手は震えた。

元々強かった承認欲求が、一度満たされてさらに底なしのバケツになってしまったようだった。

隠しきれない傲慢さを垂れ流していたと思う。

とにかく、書くことが私のすべてだった。

書きたいことはいくらでもあったから、寝食を忘れて、親が止めるのも聞かずに、リビングのPCで書いては、ネットの海に放り投げていた。

……振り返ってみれば、そんな時期が7年くらいはあったみたいだ。

終わりはいつの間にか来ていた。

7年の間に、私には友人ができ、恋愛をして、受験して、大震災が来て、就活して地元を離れて仕事をして、とにかく他にも大切なものができたのだ。

文章にしなくても、周りにいる人たちを怖がらずに世界に触れるようになったのだ。

まっとうに大人になったんだと思う。これで良かったのだと思う。

ある日、出張先のシンガポールで、メッセンジャーが鳴った。

見知らぬ人が、高校時代のコンクールの文集に掲載された私の小説を読んでくれたようだった。本名での掲載だったので、FaceBookで検索して感想を送ってくれたのだ。

10年も前の作品を見つけてくれて、本当にありがとう、と思った。

再び心臓がバクバク鳴って、体は熱くなった。

メッセージは「今でも書いていますか?」と締められていた。

今はもう書いていない。

お礼と一緒に、その旨を返信した。

書くことがなくなっちゃったから。書かなくても良くなってしまったから。

書く楽しさと、認められる興奮だけは忘れようがないから今でもたまにキーボードに向かってみるけれど、何にも出て来やしないんだよ。

それなのにまた、noteのアカウントなんて作ってしまった。

まったく。

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