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見えないコロナとの心理戦に備える   ー新型コロナと放射線被害の共通点・見えない不安と喪失ー

 目に映る風景はいつもと変わらないのに、見えない何かによって決定的に違った街に変わってしまっている。2011年の福島のあの感覚を、よもや2020年の東京の街で感じることになるとは思っていませんでした。

 FUKUSHIMA2011の否認と代償のために大風呂敷を拡げたTOKYO2020、オリンピックは延期となり、見えない新型コロナウィルスが猛威を振っています。
 皮肉を感じざるを得ませんが、2000年代は厄災の世紀なのか!と神様を恨みたくなります。しかし、嘆いてばかりもいられません。福島の体験から学び、その経験を活かす時でしょう。
 もちろん、放射線とウィルスでは異なることも多いのですが、こころの視点では多くの共通点があります。その鍵は、見えないことによって高まる「不安」と見えない「喪失」です。

見えないことによる不安
 ゴジラのような怪獣に町を破壊されたとしたら、それはとても怖いでしょうが、少なくとも見える怪獣から逃げることはできます。私たちは見えるものに恐怖を感じ、回避行動をとろうとすることができます。しかし、見えない放射線やウィルスは私たちに恐怖よりも不安を呼び起こします。実際、隣の人の咳に感染を疑い、自分の些細な体調の異変にも感染を疑ってしまう。感染する不安と感染させる不安、どこかしこにもウィルスがあるかもと不安は疑いと連鎖して拡大していく性質をもっています。その人のもともと持っている不安が刺激され、死の不安と、さらに経済不安も重なって、それらに圧倒されて、こころがバースト(破裂)してしまうことさえあります。不安はそれ自体ずっと感じている(あのドキドキ、ざわざわする感覚です)ことが強いストレスであり、心身を蝕むのです。

過信は不安の裏返し
 福島でも感じたことですが、この不安な状態があまりにも苦しいため、こころを守る反対のこころの働きもよく起こります。それは「自分は大丈夫だ」「大したことがない」と過信することです。放射線に対してもこの2つの反応が生じて、その間で対立が起こりました。しかし、グループ療法などでよくよく話し合っていくとこの2つは同じ根っこの表裏の現れであることがわかります。見えないこと、得体が知れないことほど、極度に不安になったり、その不安を振り払うため極度に過信したりするのです。

極端な考えに陥りやすくなる
 また、見えない不安の渦中では、考え方が極端になっていくことも特徴です。いつもは冷静に考えられていても、不安に陥ると極端な考えや行動に走ってしまいます。「中国が全部悪い」「アジア人のせいだ」翻って「ヨーロッパがだめだ」と誰かのせいにしたり、責任や原因を一つに押し込めたくなるヘイト現象も強まります。また、買いだめやパニックといった現象もこの極端な思考の結果です。これらの極端な考えは私たちのこころの奥に潜んでいるもので、自己本位で妄想的で、かつ残酷な特徴を持ちます。ゆとりがなくなり、状況が悪化すると加速度的に現れてくるこの現象は、理性よりも生き延びようとする本能がそうさせる面があるともいえましょう。しかし、これが福島でも極度の差別やいじめ、デマによる風評被害という偏見を生み出し、住民に言葉に尽くせないほどダメージを与えました。

奪われた日常―見えない喪失―
 学校や職場・イベントなどの自粛や中止の連続が積み重なっています。学校いかなくてラッキーなどと言っていた子どももいましたが、ここで起こっていることは「日常・当たり前の喪失」です。世界はいつもと同じに見えるのに、私たちが普段行ってきた日常の営みが失われているのです。福島の避難地域の住民が「川も森もきれい、牛も豚も元気なのになんで去らなければいけないんだ」と言ったように、何も変わっていないから見えにくくなる「喪失体験」です。福島ではそれを「あいまいな喪失」と呼びました。全く同じとは言えませんが、今回のコロナ・ウィルスで私たちは今まで当たり前に行っていた日常の営みができなくなり、普通にあるはずの空気がなくなるかのように、当たり前の日常を失って徐々に息苦しくなっていくのを感じています。戦いが長く続くほど、これは不安と相まってボディーブローのように効いてきます。

これらの対処法を考えましょう
 
➀不安に左右されていないかチェックする
 不安や恐れの気持ちが起こることは正常な反応です。ただし、不安に圧倒されてしまうと過剰な不安、過信が起こってしまいます。自分が不安であることを自覚し、自分の考えや行動が不安に左右されていないかをセルフチェックする視点を心の中に持ちましょう。

➁正確で科学的な知識に触れること
 得体のしれない不安の渦中で、私たちは不安のフィルターを通しているため、“現実ではない””事実ではない”ものを見てしまっている可能性があります。そのため、情報に踊らされず、事実を知る努力が大切になります。ウィルスやその正体を少しずつでも見極め、見えないものを見える化していくのです。不安や恐れの感情によるズレを正しながら、科学的な情報を手に入れ、その正体を見極めることを続けていきましょう。放射線被害の時、福島の人たちは徹底的にその線量を計り続けました。今回は、放射線ではなくウィルスとの戦いです。コロナウィルスの特徴や感染ルートが徐々に明らかになってきています。正確な情報が積み重なっていけばいくほど、何がリスクなのか、何は大丈夫なのかがわかってきます。もちろん実際に見えることはないのですが、そうして少しずつ見える化(可視化)が進みます。その中で、今するべきこと、そしてできることをみつけていきましょう。そんな冷静な戦いが求められています。

③関係の喪失への手当て(他者によるケア)
 「不安」と「日常の喪失」によって損なわれる最大の損失は、普通の関係性が失われることです。同僚や友達、ご近所さんとの普通の関係が薄れていき人とのつながりが壊されてしまうのです。放射線被害の時、最も苦痛だったことは普通の関係性が壊れてしまうことでした。そして、ウィルスは人に宿るため、放射線よりも関係性へのダメージは強いと言えます。実はこの日常の関係性こそが不安を緩和する特効薬にもなります。孤立すればするほど不安はどんどん高まってしまうのです。不安や恐れを人と分かち合うこと、話すことが何よりも大切です。福島でもおしゃべりする会を開催してきた経験から、私も試しにオンラインでの飲み会や会議を行ってみましたが、「やらないよりずっとまし」という実感を得ました。電話やオンラインやSNSを情報交換の目的だけではなく、壊されている関係性への手当てとして利用することを心掛けてみてください。

④「喪失」は「獲得」でもある(セルフケア)
 自粛や中止や延期で私たちは多大な「喪失」を被っています。しかし、楽観的なことを言うつもりはないのですが、心理的観点では、喪失は必ず獲得も伴っているのです。何かを失った時、その隙間は新しい何かを生み出すチャンスでもあります。空いてしまった時間や、なくなったイベントは残念ですが、発想を転換させれば、今までやりたくてもできなかったことをする機会にもなり得ます。日常に紛れてしまって、したくでもできなかったことを考えてみましょう。家族とゆっくりした時間を過ごすこと、読みたかった本を読むこと、書きたかった文章を書くこと、気になっていたあの人に連絡を取ること。部屋の片づけや洋服の整理も気になっているかもしれません。この危機になおざりになっていた何かを取り戻す機会として活かしてみる視点をもちましょう。

 福島弁で「しびらっこく」という言葉をある農家の方が教えてくれました。それはどんな事態にもめげずに、粘り強く、しぶとく生き残るという意味だそうです。私はこの語感が大好きです。見えないコロナとの心理戦をしびらっこく生き残るために、少しでも役に立てば幸いです。

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