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あなたと社会の平和ルール。

「女の子なんだからそんな格好をするべきじゃない」
「女の子なんだから料理くらいできないと」
「女の子なんだからおしとやかに」
「女の子は聞き上手であるべき」
「早くいい人見つけて結婚しなよ」
「女は子どもを産むべき」
「子育ては女の仕事」
「母親は家庭的で家事も育児も完璧にできる」

「男の子なんだから泣くな」
「男の子なんだから強くあれ」
「男の子らしい色を選べ」
「男らしくあれ」
「男の子だからできるようになれ」
「男は稼いでなんぼ」
「父親は家の大黒柱だ」

「子どもを愛していない親などいない」
「親は立派に子どもを育てるべきだ」
「産んで育ててくれた親は大事にしなくてはいけない」
「親の言うことは絶対だ」
「親孝行すべきだ」

本当に着たい下着や洋服や靴をいつでも着ていい。
女だからって料理が嫌いでもいい。
女だからって化粧をしなくてもいい。
他人や社会からの”女性らしさ”評価を気にして無理をしなくてもいい。
女だからって嫌なことは嫌、やりたいことはやりたいと主張してもいい。
結婚しない選択をしてもいい。
子どもを産まない選択をしてもいい。
夫婦別姓でもいい。
完璧な母親でなくて良い。
家事育児は女だけの仕事ではない。
家の仕事よりも外の仕事の方が好きな母親でもいい。
一人で育てなくてもいい環境が地域社会にあればいい。

男の子だって泣いていい。
男の子だって弱みを見せたり、弱音を吐いていい。
男の子だって何色を好きでもいい。
男の子だってかわいいものを好きでもいい。
男の子だからってできなくてもいい。
もうマウント取らなくてもいい。
家父長制を引きずる必要はもうないかもしれない。

自分の子ども愛せないのは、本当の自分の感情を無視しているからかもしれない。
社会の常識が正しいとは限らないかもしれない。
ワンオペする必要のない環境や支援があればいい。
子どもが育てられないなら、育てられる人が育てればいい。
生まれた子どもが安心して自分らしく活き活きと生きられるなら、
血の繋がった家族と一緒に暮らさなくてもいい。
親を無理に愛さなくてもいい。
親の言うことを聞かなくてもいい。
親のためのに生きなくてもいい。
親を許さなくてもいい。
あの時の親を許さなくてもいい。

男の子が男の子を好きになってもいいし、女の子が女の子を好きでもいい。
同性同士で結婚できてもいい、同性同士で子どもを育てることができてもいい。
いいとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、こうあるべきとか、誰もが誰かをジャッジすることなんてできない。

喋り方、態度、身なり、男らしさと女らしさの枠組み、家族の概念や親のあり方、ジェンダー圧力や、世の中の「こうあるべき。」という呪いが、自らの首を絞めている。「自分らしさ」という尊厳が、その呪いによって奪われている。

こうあるべき。という正しさの暴走。
思い込みの善意、という暴力。

誰もが社会の平和ルールを、他人や自分自身に押し付けている。

自分らしく生きることを許さない社会と常識。
その枠組みをはみ出す人を監視して叩く人。
自分らしく生きることへの抵抗は自分の中にある。
生きにくさの原因は自己嫌悪。
怒りの裏側には悲しみ。

誰もが溢れでる感情を自由に表現する権利があって、好きなものを選択し、自分らしく生きていく権利がある。
自分の本当の気持ちをもっと大事にしていい。
ジャッジしないことでしか、多様性なんて生まれない。
わたしたちはいつまでこの争いを続けるのだろう?
女性差別も男性の生きづらさも毒親も、パワハラもモラハラもセクハラもネトウヨもありとあらゆる差別も、身体的・精神的・性的なありとあらゆる暴力や虐待や犯罪も、ネグレクトも競争や争いも、全部地続きにつながって、その負の無限ループがもうずっと続いてる。

自己嫌悪を植え付ける教育はおかしい。
罪悪感を持たせる社会はおかしい。

闘うのは誰かじゃなくて、
自分の内側にあるもの。
変えるのは相手ではなく、構造そのもの。
わたしたちは誰もが当事者。


本当はそのままで何もかも素晴らしいのに。


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