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1984年、わたしは東京の郊外で生まれ育った。

1984年、わたしは東京の郊外で生まれ育った。
街はどこまでいっても住宅地と高い空が広がっていて、その景色には必ず電線が横切った。時より西の空を飛んできく大きな飛行機を、わたしはずっと大人になるまでそれが旅客機だと思い込んでいた。よく見ると窓が付いていないし、やたら控えめな色をしている。

人の記憶はどのくらい事実に近づけるのだろう?


側から見たら”恵まれた家庭環境で育った子”だったに違いない。
なんでもかんでもでは決してなかったけれど、欲しいものはだいたい買い与えてくれた。
小さい時には車で行ける関東県内へよく家族で旅行した。海に山に、バブルの恩恵を子どもながらにしっかり受けていた。
どれも続かなかったけれど習い事に通い、家族全員で乗馬クラブに通った時期もあった。
特に学びたいことがなくても大学へは行くのが当然という家庭環境で、兄もわたしも弟も3人全員私立の4大を出た上に各々一人暮らしまでさせてもらった。
物理的な不自由を感じたことはなかった。そして多分、わたしは小さな時からその自覚があって、外でそのことを誇張するような言動をしなかった。

わたしの母は田舎の農家出身で、看護学校を出てから定年退職するまで看護師として勤め上げた。父は幼い頃に父と兄を亡くし、自分で学費を稼ぎながら某四大を出から、長く勤めた会社の役員をしていた。父も母も一代でそれなりの社会的な地位と生活を築き上げた人間だった。二人とも今聞くと結構びっくりしてしまうような貧しい子ども時代を経ているため、その点、代々エリート家族とは全く異なり、いたって庶民的な価値観を持ち合わせていた。
少し恥ずかしくなるようなほど貧乏性で、ものを捨てられない性格だった。タバコも吸わず、お酒を飲んでいるのを見たのは冠婚葬祭くらいで、もちろんギャンブルもしない。父も母もは浮気などする暇もなく毎日忙しく働いていたけれど、きっとそういうことにはもともと興味のない人間だったのだと思う。社交的とも言えないが内向的でもなく、常識的で真面目という言葉がぴったりな立派な人たちだ。


わたしは3人兄弟の真ん中で、兄と弟は4つずつ歳が離れていた。
庭で遊ぶのが好きな子で、虫や植物の観察をし絵をたくさん描いた。今思えば、幼い頃から感受性は豊かだったのだと思う。会話の雰囲気、空間の空気の微細な変化、人の心情を細かく感じ取っていた。そしてそれに気づいてないふりをするように自然となった。みんなそうするものだと思っていた。
その反面、ご近所様に大変な迷惑をかけていたのじゃないかと思うほどのギャングでもあった。まだ自転車の三輪が外せない頃からガラガラと後輪で爆音を鳴らながら、幼馴染の男の子2人を”引き連れて”大声で呼びながら近所のパトロールに勤しんでいた。近隣の家の、庭や塀は横切るための障害物でルートで、空き地や空き家は秘密基地だった。わたしたちだけのきらきらひかる秘密が沢山あった。兄弟の中では、ずば抜けてアクティブな性格だった。

小学校に入学しても明るくで活発で、分け隔てなく誰とでも仲良くできる子だった。
正義感が強く、曲がった事が大嫌いで、自分の意見を持ち、言うべきところでははっきりと自分の意見を伝えられる子だった。「それ違うと思う。やめなよ」と伝えることで、浮かび上がった問題がシンプルに解決してくようなシンプルな子どもの環境でもあった。
もちろんいろんなタイプの子が集まっていたけれど、陰湿ないじめなどなく(知らないだけだったのだろうか?)男女分け隔てなく本当に仲が良かったと思う。ずっと一緒だった小学校の子たちはほとんどみんなで同じ中学校へ進んだ。

両親は学業に関しては一切口を出さなかったけれど、わたしは何も言われなくとも当然のように宿題をこなすような子だった。授業を苦痛に感じたことはなく、できるようになることが楽しかった。特に美術(図工)や体育、音楽は快感さえ伴った。
学校も友達も大好きだった。わたしにとって学校は安心できる場所だった。

旅客機だと思っていた飛行機が軍用飛行機だったように、ずっと変わらない事実を勝手な思い込みの中に長い間閉じ込めてしまうこともある。
その人が見たいように物事を見ているからこそ「勘違い」は起こるように、人は見ている世界も感じる感情も千差万別だ。

なかったことになんてなるわけはない。
あの時のわたしを無視してはいけない。
物事は突然起こらない。ただ、じわじわと。ある時突然爆発する。

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