ソビエトで見たもの

私は1990年、大学の卒業旅行にソビエトを選んだ。いきなり初めての海外旅行がソビエトって凄くない?と思うだろうが、私には3つの理由があった。

1.シベリア鉄道に乗りたかった。

2.ショスタコーヴィチの交響曲が初演されたレーニングラード(当時。今はサンクトペーチェルブールグ)音楽院大ホールでレニングラードフィルの生演奏を聴きたかった。

3.医師国家試験の自己採点があまりに酷かったので黒海に身を投げて死のうと思った。

まあそんな理由でシベリア鉄道に乗ったのである。シベリア鉄道の本当の東の終点はヴラージー・ヴァストークなのだが、軍港で当時は外国人に開放されていなかった。それでシベリア鉄道に乗るには新潟から飛行機でハバーロフスクに行き、そこから乗らなければならなかった。

ハバーロフスク空港でいきなり異体験をした。ハバーロフスク空港はちんけで、飛行機が到着するとよっこらしょと係員が椅子とテーブルを出してきて臨時の入国審査所を作るのだが、それがいつまで経っても始まらない。30分とかじゃ無い。3時間経っても始まらない。ついに痺れを切らした韓国人ビジネスマン達が、その臨時の入国審査の机をまたいでどんどん入国してしまった。誰かが始めればもう止まらない。我も我もと入国する。勿論私もだ。従って私の一番古いパスポートには、CCCP(エスエスエスエル)の出国のはんこは押されているが入国のはんこは押されていない。

入国すると、インツーリストという国営旅行会社の社員が迎えに来る。普通はその車に乗って真っ直ぐ外国人専用ホテル(ホテル・インツーリスト)に向かうのだが、若い私は多少ロシア語が出来たせいもあってそれを断り、市電に乗った。ホテル・インツーリストに行きたいと運転手に言うとわかったと言うからそのまま乗っていったら、なんと終点だった。着いたのはもう真夜中。ホテルでチェックインしてもレストランは閉まっている。バーなら開いてると言われバーに行ったらメニューはキャビアとニシンの缶詰とヴォートゥカ(ウォッカ)だけ。キャビアは高いだろうから、ニシンの缶詰でヴォートゥカをやった。これが私の海外初めての飯。このヴォートゥカだけは当時どこでも必ず手に入った。

翌日市内観光に繰り出したら、十代の連中に囲まれた。観光案内をしてやるという。市内の数カ所とアムール川を見せてくれて、さて「ミルドズィーヴェンはないか」という。なんだか分からないので紙に書けと言ったらMild Seven。当時ルーブルがもはや貨幣の体をなしていなかったので、外国タバコが貨幣代わりだった。私はタバコを吸わないので、これしか無い、と100円硬貨を全員に渡したら喜ばれた。硬貨は換金出来ないのを知らなかったのだ。もうちょっと後になったらあんな甘っちょろいことでは済まなかっただろう。

でまあ、彼らに連れられてスターンツィヤ・ハバーロフスキ(ハバーロフスク駅)に行き、エクスプレス・ラスィーヤ、ロシア号が入線してくるのを当時最新鋭のソニーのビデオを抱えて待っていた。あれは迫力あったよ。ロシアは広軌だから、新幹線の標準軌より広いんだ。だから車体もでかい。それが二十両ぐらいずらーっと並んだのが二台の電気機関車に引っ張られ、警笛鳴らして入ってくる。夢中になって撮影していたら、あら?画面の中の車両が動いている。慌てて目を離したら、最後尾の車掌が「ゴースパジ、ゴースパジ!」と叫んでいるではないか。ゴースパジというのはもとは旦那という意味だが、普通の会話では「お客さん!」と言った意味だ。出発しちゃってたのだ。二十両もある重い列車がゆっくり動き出したから飛び乗って間に合ったものの、まあ出発からしてとんでもなかった。

ロシア号は特急となっているが、実にゆっくりした特急だ。ハバーロフスクからマスクヴァまで6泊掛かる。私は二等車に乗ったので、1つのヴァゴーン(部屋)に4人掛け、二段ベッドが向かい合っている。結構乗り降りが激しい。昼時になって食堂車に行ってみたら、分厚いメニューが渡される。これとこれ、と注文すると「ニェーイェスチ」、無い。どれを注文しても「ニェーイェスチ」。しかたないから「シトー・イェスチ?(何があるの)?」と訊くと結局あるのはボールシシ(ボルシチ)とフレープ、つまり黒パンだけ。他は全て「ニェーイェスチ」である。

しかし食べ物についてはそれほど困らなかった。食堂車はニェーイェスチでも、駅毎に売り子が来る。大抵おばちゃんだ。おばちゃんがペリメーニ(水餃子)とかピローシキなどを売ってくれ、それが美味い。食堂車のパンはガムみたいだったが、おばちゃん達のピローシキは絶品だった。これでヴォートゥカかチャイ(紅茶)を飲めばいい。この紅茶ってのは無料で、時々車掌が廻ってきてお湯をくれる。各車両に1つづつサマヴァール、湯沸かし器が備えてあって、それでお湯とティーパックのお茶を持ってくる。各車両にサマヴァールが付いているってのがロシアらしくて良い。

そうそう、ロシア号ってのは電気機関車が引っ張るんだが、煖房は電気じゃ無かった。これは時々停電するからで、シベリアのど真ん中で冬停電したら凍死してしまう。だから煖房は電気じゃ無いんだという話だった。

ちなみに本当はロシア号では食堂車以外アルコールはネリズャー(禁止)なのである。だが当時のソビエトのネリズャーは大抵本当のネリズャーではなかった。私はハバーロフスクでちゃんと一本買い込んできた。しばらくしたら2つ先のヴァゴーンから酔っ払った30代ぐらいの兄ちゃんが突然現れて、色々絡む。大騒ぎになって車掌が来たから、車掌にも一杯どうだと言ったらぐいと飲み干した。禁止も何もあったものじゃ無い。途中でヴォートゥカが切れたら、車掌にドルを渡せば良い。1ドル渡すと、ちゃんとヴォートゥカが出てくる。要するに、表向きはネリズャー(禁止)なのだが現実はドーラル(ドル)で片付いた。

途中カルホーズ(国営農場)長だというおっさんが乗ってきた。このおっさん、何かとガルバチョーフの悪口を言う。やれ経済政策がダメだ(これは私も痛感した)、その他諸々。しかしややあって私は口を挟んだ。確かにそうかもしれないが、今あなたはこうして列車の中で知らない外国人に大統領の悪口を言えるでは無いか。そうしたらおっさんは急に真顔になって「ダー。エータ・バリショーイ・ジェーラ(そうだ。それは凄いことだ)」と言った。

シベリア鉄道は途中バイカル湖の湖畔を走る。三日月湖の一番尖ったところを走るのだが、それでも延々5,6時間は走ったか。でかい湖だった。湖畔のイルクーツクという町で二泊した。イルクーツクは帝政ロシア時代から流刑者の町で、ここに流刑になるのは泥棒では無く政治犯だから、インテリで身分も高い。だから町は瀟洒で風情がある。バイカル湖は全面凍結して、私は湖畔から数十メートル歩いたが突然氷が薄くなったので驚いて戻ってきた。四月下旬だったから、そろそろ溶け出す頃だったのだ。

二晩イルクーツクで過ごし、またロシア号に乗り一路マスクヴアを目指した。マスクヴァは北京のような、と言っても北京に行ったことが無い人はわからないだろうが、どかんどかんとでっかいビルが建ち並び、その間に広い通りがたくさん走っていた。マスクヴアの記憶はあまりないが、ともかくお上りさんだから赤の広場に行った。広場の一角にアイスクリームパーラーが出ている。そこでアイスクリームを買おうとしたが、行列が出来ていて進まない。パーラーのお姉ちゃんはおしゃべりばかりしてちっとも仕事をしない。そこではっと気がついた。そうか!このお姉ちゃんは国家公務員なんだ!アイスクリームパーラーのお姉ちゃんが国家公務員!そりゃ仕事しないわね。改めて凄い世界だなあと思った。

グムというマスクヴァで一番でかい国営デパートに行ったが、ショーケースは空っぽ。おばちゃん達が暇そうにおしゃべりしている。またも「ニェーイェスチ」、無い、である。ところが当時、ガルバチョーフが私営経済を認め始めたばかりの頃だった。その市場があるというので地下鉄とトロリーバスを乗り継いで行ってみると、あるわあるわ、何でも売ってる。お姉ちゃんもおばちゃんも猛然と売り込みに余念が無い。フクースナ! フクースナ!(美味しいよ!美味しいよ!)とか言って勧めてくる。国営と私営はこれほど違うのかと心底驚いた。

マスクヴァと言えば丁度その時、マクドナルドのソビエト一号店がマスクヴァに開店したばかりだった。行くには行ったが、ものすごい行列で諦めた。店を幾重にもぐるぐる取り囲んで行列が出来ている。ソビエトと言えば行列で有名だったが、あれは私がソビエトで見た中でも最長の行列だった。

マスクヴアからまた鉄道でレーニングラードに行った。クラースナヤ・ストレラー(赤い矢)号というのだが、これものんびりした矢である。レーニングラードまで一泊掛かる。今は新幹線が走っているそうだ。

レーニングラードはさすがに元ロシア帝国の首都サンクトペーチェルブールグだけあって洒落た町だった。町中に古い寺院がたくさんある。社会主義で寺院などは壊したのかと思ったら大切に保存されていて、改修工事などもされていた。そのうちの1つに入ったら、あまりに庭が広大で迷ってしまった。どこから出たら良いものかと困っていたら係員のおじちゃんが来たので、門はどこだ、と訊いたら「エータ・ヴォロータ・トゥヴァヤー」、これが君の門だ、と指さした。見るとでっかい立派な鉄製の門があるが、鍵が閉まっている。しかし庭番はその門に私を誘い、ガチャガチャと巨大な鍵を取り出して門を開けてくれ、さ、行け、と言うので外へ出られた。大体こんなふうで、大抵は融通が利くのだった。

レーニングラードで尋ねた場所は主に2つ。1つは一番有名なエルミタージュ美術館、二つ目はレニングラード音楽院大ホールだった。エルミタージュ美術館というのはエカチェリーナ女帝の宮廷だった建物で、それは凄いものだ。中には古今東西の名画、財宝、美術、骨董品がずらりと並んでいるのだが、あまりに建物そのものが素晴らしくて、なんだか名宝がちんけに見える。古代から中世、近代、中には印象派の絵もたくさんあってこれはナチスから奪ったもの。しかしピカソまであったところを見ると、ソ連は金が無いと言いながら、そう言う見世物になる物はちゃっかり買って、エルミタージュのような外国人が見る場所には置いてあったのだ。

エルミタージュ美術館で夢中になって名画をビデオで撮りまくっていたら係のおばちゃんから「マラドーイ・チェラビエク(お若い方)!」と声を掛けられた。「スュダー・ヴィージオ・ネリズャー!ここはビデオ禁止!」。このネリズャーはドルで何とかなりそうに無かったので、私はすごすご諦めた。

レニングラード音楽院大ホールではしっかりレニングラードフィルの生演奏を聴いた。レニングラードフィルというのはА(アー)とБ(べー)の二編成あって、どちらかが演奏旅行しているときはどちらかがレニングラード音楽院大ホールで演奏する。私が聴いたのがどちらだったかは覚えていない。一番感動したのは、ホールの入り口に「コンセルヴァトーリヤ・レーニングラーダ・イーメニ・ショスタコーヴィチャ」と看板が掛かっていたことだ。「イーメニ・ショスタコーヴィチャ」、つまり「ショスタコーヴィチ記念」と言う意味だ。これは知らなかったので、ショスタコーヴィチ大ファンの私はたいそう感激した。

レーニングラードで地球の歩き方に勧められていたロシア料理店に入った。例によって料理はいつまでも出てこない。隣で二十代ぐらいの連中が酒盛りをしている。その一人が「どこから来た?」とか聞き始めた。日本から来たというと「ソビエトはどうだ」という。私は「全て素晴らしいがたった1つないものがある」と答えた。それはなんだと言うからサービスだ、と言ったら連中サービスが分からなかった。英語で書いて見せても分からない。拙いロシア語と身振り手振りで説明すると、はっと気づいた人がいて、「ダー!エータ・ニェーイェスチ・ヴサヴィエート!(そうだ!それはソ連には無い!」と言って大爆笑。だいぶヴォートゥカを奢られた。

レーニングラードでは出来たばかりの私営レストランにも行った。そこは勿論至れり尽くせりのサービスがあって、メニューに載っているものは何でもイェスチ、御座いますである。そこで私はチョウザメのステーキとキャビアを食った。チョウザメのステーキってのはチョウザメがまるごと一匹焼かれて出てくるのだがそりゃ美味かった。その代わりとんでもないお値段で、しかもルーブルは使えない。お支払いはドルかクレジットで、だった。

まあその、当時米ソ冷戦と言われてガルバチョーフが何とかソ連を立て直そうと頑張っていたわけだが、人々が皆敵国通貨であるはずのドルを欲しがり、アメリカの象徴マクドナルドに長蛇の列が出来るわけだから、これはもう勝負にならんなと思ったら、ご承知の通りやはりどうにもならなかった。

エルミタージュもレニングラード音楽院も行ったので、後は黒海に身を投げて死ぬだけだと港を目指し、さて黒海の淵に立ったのだが「チョールヌイ・モーレ(黒海)」と言うだけあってその水は黒々として寒々しく、急に足がすくんでしまった。ロシア語で「何とかなるさ」というのを Горе не море, выпьешь до дна(ゴーレ ニェ モーレ、ヴイピエーシ ダ ドゥナー) 、悲しみは海では無いから何とか飲み干せるというのだが、このチョールヌイモーレはあまりに寒々しく、とても身を投げられそうも無いので引き返した。

レーニングラードからまだ懲りず列車に乗ってバルト三国を通り越し、チェーハスロヴァーキア(当時)の首都プラーハへ向かった。ちなみに英語ではPragueと書くが、現地の正しい発音はプラーハである。そうそう、言葉と言えば、プラーハを歩いていて道に迷った。通りがかりの人に道を訊くが、向こうはチェコ語かドイツ語しか知らない。私は英語かロシア語しか知らない。困ってロシア語で訊いてみたら最初全く分からないという顔をされたが、実は日本から来て云々と言ったら見事なロシア語で教えてもらった。連中しゃべれるのだ。しゃべれるが、ロシア語はしゃべれないフリをする。たまたま、チェコの社会主義政権が民衆革命で倒れた三日後で、街角には犠牲者を悼むろうそくがあちこちに点してあった。偶然だが凄いときに行ったものだ。

プラーハ大聖堂はさすがに感動した。ヨーロッパの大聖堂というのを見たのはあれが初めてだった。大聖堂というのはキリスト教寺院にとって特別の由来と意味があるのだが、これは省略する。プラーハの中心街は風致地区になっていて、中世の石の町畳そのままだったが、これは実は第二次世界大戦で徹底的に壊されたのである。それを石一個一個拾い上げて元の町並みを復元した。こういうのは日本人とは違う感覚だ。焼け野が原になったら、日本人なら新しいコンクリートの町を作るだろう。だがヨーロッパ人は実直に石を拾って古い町を再現する。

ちなみにこの古い町の広場、実は二十年後に学会でもう一度訪れた。そうしたら建物は変わらないのだが、その周りに安っぽい土産物屋やカフェーが並んでいて、それはがっかりした。日本のどこの観光地にもあるような風景である。ホテルのバーテンにその話をしたら、彼が「Yes! We learned capitalism perfectly, you see?」と言ったから大笑いした。これは二十年後の話。

で話を二十年戻して、プラーハからまたまたしつこく鉄道に乗り、ヴィーンを目指した。チェコは東欧でソ連と同じ広軌、オーストリアは標準軌だから国境で車輪の交換がある。その間に出入国手続きをするわけだ。手続きが済んでしばらくしたら、ヴァゴーンに乗り合わせていたイタリア人の若い連中が突然ヒャッホーイ!と叫んでワインを開けた。私も振る舞ってもらった。何かと思ったら、国境を越えてオーストリアに入ったのである。その時は「そうか彼らにはそんなに東欧を抜け出したのがうれしいのか」と思っただけだったが、やがて日が暮れて、遠くにぽつんとマクドナルドの看板の明かりが見えた時は私も思わずジーンときた。自由世界に戻ってきたんだ。マクドナルドの看板に感動したのは、56年の人生で後にも先にもその時だけだ。

ヴィーンはもう余談になるが、私はヴィーンだけは事前にホテルを抑えておかなかった。ヴィーンほどの町なら駅で何とかなるだろうと高をくくったのだが、なんともならなかった。どこも一杯だったのだ。アメックスの番号に電話したらドイツかオランダの事務所に繋がって、今ヴィーンにいるのだがホテルを探してくれと頼んだがやはりダメだった。途方に暮れてある中級ホテルに入って行き、フロントに実は日本から来てこれこれこういうわけなんだが、と話したら、フロントマンが「分かった。俺の勤務は朝6時半までだから、それまでロビーの長椅子で寝ていて良い」と言ってくれた。ヴィーンで覚えているのは正直それだけ・・・ああもう一つ、名物のザッハトルテが異様に甘くて食べきれなかったことだけである。

ヴィーンからの帰りはさすがに飛行機に乗った。ところがこれがアエロフロートで、いきなりダブルブッキング。結局この長旅で一番トラブったのはここだった。まあ後ろの席が空いていたのでその辺に勝手に座れと言われて事なきを得たのだが。

とこういうわけで、凄い初の海外旅行だった。ロシア語がしゃべれたので(今はほとんど忘れた)、随分たくさんの人と話した。全部は書き切れてないのだが、ともかく全てが公営というのはこういう悲喜劇を生むのか、と言うことはよく分かった。だから私は日本共産党の綱領にある「生産手段の社会化を目指す」というところが非常に引っかかる。さすがに公営と書くのは憚られたのか、「社会化」というのだが、Twitterでいろんな共産党候補に「社会化とはなにか」訊いても全く答えが返ってこない。もしアイスクリームパーラーのお姉ちゃんを国家公務員にするというのなら、私は御免被る。

(完)

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