見出し画像

noteに書こう!と思って接すると、どんな些細なこともいつもと違って見えると言う話。

note投稿46回目である。
今年の8月14日からnote毎日投稿を始めて約1ヶ月半、
日々感じることを感じたままに書き続けさせてもらっているのだが、
最近新しく気づいたことがあるので、今日はそれを書き残したい。

noteに書こう!と思って接すると、他人事ではなく自分事になる。

最近気づいたこと、
それは「今日も何書こうかなぁ」と思って1日を過ごしていると、身の回りにあるものへの見方が変わってくると言うことだ。

例えば、
仕事帰りやどこかに出かけた時に、街並みや植物、季節の移り変わり、コンビニの新商品など、
今まで特に目も向けなかった些細なことにも目を向けるようになったり、

誰かと接する時も、「なんであの人あんなこと言ったんだろ?」、「あーやっぱあの人のああいうとこすごいな!」と今までなんとなしに感じていた出来事を、
その少し先や奥に踏み込んで考えるようになってきた。

なんでそう変わってきたのかと考えると、
きっと感じたことを言葉で表現する必要ができたからだと思う。

たしかにそれまでも、毎日色々な出来事に触れて、その都度あーでもない、こーでもないと感じたり、考えたりしてきた。

しかし特に言葉に書き表す必要がなかったので、自分と直接関係ない出来事に関しては、
自分の好きな距離感で、自分の好きな見方で、どこか他人事と言うか傍観者の立ち位置で見ていたのだと思う。

だがnoteを書き始めるようになったことで、
義務ではないが、嫌でも自分の感じたこと、考えたことを言葉にしないといけなくなった。

言葉にする!となると、周りのことが全て気づきの対象になるから、以前のような傍観者ではいられない。

日常を言葉で切り取るためには、一歩踏みこまなければいけない。
出来事と真正面から向き合わないといけない。
自分の見たいように見てるだけでは、ぼんやりと考えているだけでは言葉にできないからだ。

そうすると些細なことにも注意深くなるし、自然と自分事として目の前の出来事、人に接するようになる。
意識的に目を向けるようになる。

この1ヶ月半で周りの見方と言葉の使い方が少し丁寧になったと思う。
それはnoteを始めたおかげだし、これからも言葉を紡ぎ続けたい。

自分の思いを言葉にすることの意味。

一方何でもかんでも言葉に落とし込めば良いと言うものでもない。
言葉にすることで逆に野暮になることもある。
理屈っぽくなってしまうこともある。

ただ普段から意識的に言葉を使う、言葉を操る練習をしないと、中々言葉は自分のものにならないとも思う。

私自身30数年生きてきて、毎日日本語を話してきて、言葉には慣れているつもりでいるが、
仕事でもプライベートでも、特に自分の気持ちや考えを自分の言葉で表現することはとても難しい。

自分で考えたつもりでも誰かに言われた言葉かもしれないし、自分で思ったつもりでもどこかで聞いた言葉だったりする。

私自身もそうなのだが、何気なく生活しているとつい、周りにある言葉や価値観に振り回されていたりする。

しかし毎日感じたことを自分で言葉にする習慣ができれば、周りの言葉や考えに縛られずに、
少しづつでも自分の言葉で考え、漠然とした何かに振り回されなくなるかもしれない。

自分の言葉で発信することは、周りの考えや価値観から自由になることにもつながると思う。
そんなことを考えた1日だった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?