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【連載】岩波文庫で読む 「感染症」第7回|人はそれぞれ頭のなかに疑似環境をもっている ウォルター・リップマン『世論』|山本貴光

 目下私たちは新型コロナウイルス感染症による困難のなかにいる。数ある困難のなかで、ここではそのうちの二つの点に目を向けてみたい。

 一つはウイルスの感染とそれがもたらす病の問題で、これは健康や生命に関わる。マスクの着用や消毒、人と接触する機会を減らすといった生活のさまざまな面での変化も、感染症への対策として生じたものだった。

 もう一つは、このウイルス感染症やそれに関わる医療情報その他について飛び交う真偽の定かならぬ情報の問題だ。いくつか言葉を選んでネットを検索してみれば、そもそも新型コロナウイルスなど存在しないとか、ワクチンはなにがしの陰謀であるなどと書かれたブログや動画の類がヒットする。これも事と次第によっては健康や生命に関わる問題である。

 英語には、こうした不確かな情報が拡散する状況を指す「インフォデミック」という語がある。「インフォメーション(information)+エピデミック(epidemic)」を略したもので、つまり情報の伝達を伝染病に喩えているわけだ。

 英単語の出所を知りたい場合、頼りになるもののひとつに『オックスフォード英語辞典(OED)』がある。この辞書では、単語ごとに見つかった限りで最も古い用例から順に並べてあるので、どの時代にどんな意味で使われていたかを確認できる。

 そのOEDのオンライン版で「infodemic」を引くと、最も古い用例は2003年の文章で、比較的新しい語であるらしいことが分かる。インフォデミックという言葉の意味を確認するついでに、その用例をかいつまんで見ておこう。

 参照されているのは、2003年にSARSという感染症によって多くの死者が出た際、「ワシントン・ポスト」に掲載された記事である。SARSとはSevere Acute Respiratory Syndromeの略称で、日本語では「重症急性呼吸器症候群」という。その原因となる病原体のほうは「SARSウイルス」と命名された。ついでながらSARSウイルスもコロナウイルスの一種と分類されている。

 その記事の著者は国際政治学者でジャーナリストのデイヴィッド・J・ロスコフ。”When the Buzz Bites Back”(Washington Post、2003年5月11日)と題した文章で、いまでもウェブサイトで公開されている。

 ロスコフはこの記事で、多くの人びとの生命に関わるSARSの感染拡大に加えてインフォデミックも公衆衛生をコントロールしがたくする要因だと指摘した。インフォデミックについてこんなふうに説明している。

事実とされる話に怖れや憶測や噂やらが紛れ込み、それが現代の情報技術によって速やかに拡散・中継され、国内はおろか国をまたがった経済、政治、安全保障にまで影響を及ぼしてきた。しかも元ネタの実情とはまるで釣り合わないほどの規模で。
(山本訳)

 嘘か本当かも分からない話が、ネットをつたって瞬く間に伝わる。伝わるだけならまだしも、社会のいろいろな面に影響をもたらす。それを目や耳にした人たちの意思決定や行動の選択に影響を及ぼす。そういう状況を彼は「インフォデミック」と呼んだ。

 もちろんネットの登場以前から、人のいるところ噂の伝播や流言蜚語のようなものはあった。ただ、ネット以前の世界では、噂話といっても人が対面や電話や手紙でやりとりするか、テレビや新聞などの大きなメディアを通じてブロードキャストされるか、という具合で、現在の目から見ればそれでも随分と経路は限られていた。

 これに対してネットでは、個人がそれぞれSNSその他を通じていつでも言葉や画像や音声や動画を公開できる(政府などの検閲がない地域では)。そのつど第三者による校閲やファクトチェックを受けて投稿している場合を別とすれば、思いついたら即投稿というわけで、結果的に虚々実々、本当か嘘か思い込みかも分からない文章や画像が出回って混在することになる。また、目にしたものを手軽にシェアできる仕組みもあるから、人びとが関心をもつ話題はSNS内であっという間に伝わってゆく。こうした通信環境が普及した現在、新型コロナウイルス感染症やワクチンについても、嘘か本当か分からない情報が広がっているわけである。

 だからといって、そうした話を信じている人たちに向かって、適切な知識を伝えさえすれば済むわけではない。それで済むなら話ははるかに簡単だった。実際には、間違った信念を抱いている人に対してそれを訂正する知識を伝えた結果、当初から持っていた誤った信念をいっそう強く信じるようになると指摘する研究もあるくらいで厄介だ。

 なぜそんなことになるのか。これは新型コロナウイルスそのものというよりも、むしろ人間や人間の集団の問題である。今回はこの点について頭を整理してくれる本を紹介したい。ウォルター・リップマンの『世論』(掛川トミ子訳、白222-1, 2、1987)という。


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 著者のウォルター・リップマンは、アメリカのジャーナリスト。1889年生まれで1974年に亡くなっている。日本で言えば明治20年代から昭和40年代まで、二度の世界大戦が行われた20世紀を生きた人だ。

 『世論(Public opinion)』の原書は1922年の刊行だから、およそ100年前の本。前回の古代ギリシアに比べれば、随分現代に近づいたものの、それでも古いと感じるかもしれない。だが、読むと驚くことになる。たしかにリップマンが論じているのは第一次世界大戦後の社会の混乱なのだが、そこで行われている分析は、そのまま現在の私たちについて書かれているかのようなのだ。同時代の出来事を材料としながら、時代や場所を超えて人間や社会に共通する性質を彼が捉えているのだろう。

 さて、『世論』という本は、同書全体を象徴するような話から始まる。

 1914年、とある島にイギリス人、フランス人、ドイツ人たちが暮らしていた。その島には通信手段がなく、二カ月に一度郵便船がくるばかり。そこでこんな状況が生じた。ヨーロッパ本土では、6週間前からイギリス・フランスがドイツと戦闘状態に入っていた。だが、まだそのことを知らない島の住人たちは、それまでと変わらず友人同士のように過ごしていた……というわけである。

 ヨーロッパ本土で進行中の状況に照らせば、島の住民たちもそれぞれの国の立場で敵味方に分かれるところだが、その情報が届かないために、よもやそんなことになっているとは思わない。知らせが届いた後、彼らはどうしたのか。リップマンは結末については書いていない。

 それはともかく、ここでのポイントは、世界で起きている状況と、人が世界をどう認識しているかのあいだにズレがあるというところ。

 私たちはこうしたことを日常的に経験している。例えば、あるミュージシャンが亡くなったというニュースを、没した翌日の夜になって目にする。このとき、実際にその人が亡くなってから訃報を知るまでのあいだ、私の頭のなかではそのミュージシャンは存命中と変わらない。考えてみれば、多くのことについて同様ではなかろうか。

 どれだけ通信環境が発達して世界各地のニュースをどこでもほぼ同時に受信できる状態にあるとしても、実際にどのニュースがどのタイミングで目に入るかは人それぞれ。加えて、なにを事実だと思うかは人によって違う。ここに注意すべきことがある。リップマンは次のように指摘する。

環境に関するニュースがわれわれに届くのが、あるときは速くあるときは遅いことはわかっている。しかし、自分たちがかってに実像だと信じているにすぎないものを、ことごとく環境そのものであるかのように扱っていることには気づいていないのである。まして、われわれがいま現在行動のよりどころとしている信条についてもそれがあてはまることを、忘れずにいるのはずっとむずかしい。
(上巻15ページ)

 一方には私たちが生きているこの世界やそこで生じる出来事や状況がある。ここではそれを「環境(environment)」と呼んでいる。他方には、人の頭のなかにそうした環境について「このような状況だ」という認識がある。リップマンはこれを「疑似環境(pseudo-environment)」と呼んで区別している。実際の環境そのものではない、偽の、想像上の、疑似的な環境だ。

 例えば「新型コロナウイルスは存在しない」と考えている人がいるとしよう。他方で新型コロナウイルスは、ウイルス研究者たちによって発見・観察され、他のウイルスと区別・命名されたもので、人体に悪影響を及ぼすこともつとに指摘されている。

 念のために確認すると、「COVID-19」は病気の名前。2019年末から世界に拡がった新型肺炎の略称で、略さずに書けばCoronavirus disease-2019という。そのまま日本語にすれば「2019年のコロナウイルスによる病気」とでもなろうか。

 また、その肺炎の原因となるウイルスは「SARS-CoV-2(SARSコロナウイルス2)」と分類され、名づけられている(詳しくは文末の文献をご覧あれ)。先ほどSARSウイルスもコロナウイルスの一種だと書いたが、そうした既存のコロナウイルスとも区別される新種なので「新型コロナウイルス」と呼ぶわけである。

 2019年末の発見から現在にいたるまで、ウイルスや感染症の研究をはじめとして、この新型コロナウイルスやそれが引き起こす感染症について、研究者たちによる検討とレポートが蓄積されてきた。科学や医学の専門誌はもちろんのこと、日本語で読めるものでも『日経サイエンス』のような一般向けの科学雑誌でたびたび特集が組まれており、そのつもりになれば何がどこまで分かっているのかといった知識を得ることも難しくはない(もちろん論文を読む場合には前提となる知識や理解が必要である)。

 これらの知見のなかには、未解明のこともあれば、確証を得られていない仮説に留まる見解もあるだろう。とはいえ、こうした知識や議論を検討することなく無視して、裏付けのないまま「新型コロナウイルスは存在しない」と主張するのはあまり現実的ではない。

 仮に「新型コロナウイルスは存在しない」と考える人がいるとしたら、それは現実の環境がどうかとは別に、当人の頭のなかの疑似環境がそのようになっているからだ、というわけである。


 ひょっとしたらここで疑問が浮かぶかもしれない。わざわざ「疑似環境」などと言わなくても、その人の思い込みと言えば済むのではないかと。場合によってはそれでもよいと思う。他方で、自分たちが暮らしているこの世界、あるいは自然環境や技術環境や社会環境をはじめとする環境について、人がどのように見ているかということを検討する際には便利な場合も少なくない。

 例えばジョージアという国を知らない人の疑似環境にはジョージアは存在しない。プログラム言語の一つにC言語がある。これを知らない人の疑似環境にはC言語は存在しない。尾崎翠という作家を知らない人の疑似環境には尾崎翠は存在しない。『原神』というゲームを知らない人の疑似世界にはそのゲームは存在しない。昨日Twitterで著名人のAさんが「炎上」したことを知らない人の疑似世界にはその出来事は存在しない。先月食べにいったパフェ屋が3日前に閉店したことを知らない人の疑似世界にはそのパフェ屋はまだ存在する。以下、このリストはいくらでも続けられる。

 いま挙げたのは、ある人の疑似環境になにかが欠けているという例だった。これを裏返して言えば、人の疑似環境は当人が知っている(つもり)のこと、その人がそれまで経験したことや得た知識やものの見方がつぎはぎされてできている。そしてここが肝心なところなのだが、人の経験は限られている。なんでもかんでも詳しく正確にすべてを知る人はいない。人それぞれ、詳しく知っていることからまったく知らないことまで、あるいは勘違いしていることも含めて濃淡がある。

 人はそれでも限られた経験や知識によって世界についての像をもっている。リップマンがいう「疑似環境」とはそのようなものだ。それは人が個別の知識を持っているか否かではなく、さまざまな経験や知識を寄せ集めてどんな世界像を抱いているかという点に焦点を当てる概念だった。私たちは常に必ずなんらかの環境のなかで生きているだけに、それをどう認識しているかは重要である。

 では、なぜ人は疑似環境に頼るのか。この点についてもリップマンは明快に答えている。

真の環境があまりに大きく、あまりに複雑で、あまりに移ろいやすいために、直接知ることができないからである。われわれには、これほど精妙で多種多様な組み合わせに満ちた対象を取り扱うだけの能力が備わってはいない。われわれはそうした環境の中で行動しなければならないわけであるが、それをより単純なモデルに基づいて再構成してからでないと、うまく対処していくことができないのだ。
(上巻30-31ページ)

 自然も人の社会も、無数と言いたくなる要素からできていて、なかには目に見えるものもあれば見えないものもある。しかも時々刻々と変化して留まるところを知らない。流転する複雑な世界を、私たちはそのまま扱えるような体のしくみをそもそも持っていない。

 では、そんな複雑な世界について、人はなにをどこまで知ることができるのか、できないのか。これは例えばヨーロッパの哲学では古来つねに検討されてきた問題の一つでもあった。その延長線上で現代の各種の学問がそれぞれの対象について行っているのも、言ってしまえば「精妙で多種多様な組み合わせに満ちた対象」を、それと比べて「単純なモデル」として再構成することだ。

 もちろんモデル(模型)はどこまでいってもモデルであって、対象そのものではない。しかし、私たちがそうした対象を理解しようと思えば、身の丈にあったモデルに切り縮める必要がある。なかには天体の運動を説明するモデルのように、実際の天体の動きと比べて、いい線をいっているものもある。つまり、そのモデルから将来の状態を予測できる、そんなケースも少なくない。


 疑似環境についてリップマンはもう一つ重要な指摘をしている。人それぞれの疑似環境は、どのような影響をもたらすか。ある人の疑似環境が当人の頭のなかだけに影響するなら特にややこしいことはない。だが実際はどうか。リップマンは言う。人は脳裡の疑似環境、つまり世界の見え方に基づいて行動をとる。このとき行動の結果はどこに影響するか。現実の環境、現実の事物や他人に影響を及ぼす。

 例えば先ほどと同様、仮に「新型コロナウイルスは存在しない」と信じている人がいるとしよう。この人は、その疑似環境に従ってマスクを着用せず、ワクチンを接種せず、つまり新型コロナウイルスは存在しないという前提で生活している。あるとき熱が出て呼吸が苦しくなり、風邪だろうと二、三日安静にしてみたが治る気配がない。途中は省略して、運よく病院で診療を受けた結果、新型コロナウイルスに感染していると診断された……。

 この人は、自分の疑似環境に基づいて現実環境での行動を選び、結果的に自分の疑似環境では存在しないはずのウイルスによる病気を発症して寝込んだわけである。これは仮の話だが、実際そうしたニュースに接した人もあるだろう。また、この人物が政治家や医師や教師、あるいは子供を持つ親のように、他人の意思決定や生活などに影響を及ぼす立場だったらどうか。


 『世論』は書名のとおり「世論」を分析する本だ。ここで紹介した疑似環境という概念は、世論とどう関係するのか。最後にそのことに触れておこう。

行為の現場、その現場について人間が思い描くイメージ、そして、そのイメージに対する人間の反応がおのずから行為の現場に作用するという事実。世論を分析する者はこの三者の関係を認めることから始めなければならない。
(上巻、31ページ)

 世論、つまりある社会の問題について、人びとがどのような意見を持っているかを分析するなら、

 ・行為の現場(環境)
 ・その現場について人間が思い描くイメージ(疑似環境)
 ・そのイメージに対する人間の反応が、行為の現場に作用する

 という三要素の関係を念頭に置く必要があるという指摘だ。しかも人はそれぞれ異なる疑似環境を思い描いている。

 例えば、世論をかたちづくる要素の一つに政治家がいる。ある国の政治家が、そこに住む人びとや、時には国外にまで影響を与えるような政治的な決定を下そうとする場合、その決定者がどのような疑似環境を抱いているかは無視できない要素であるはずだ。

 仮に科学への理解が乏しく、なんの役に立つか分からない研究は無駄だと考えている政治家が、感染症対策を決める立場にいるとしたらどうか。決定の内容次第では、人びとの健康や生命に甚大な影響が出るだろう。第2回で読んだカレル・チャペックの『白い病』もそうした状況を描き出していたのが思い出される。

 そういう意味では、政治家がこれまでどのような経験を積み、なにを読み、なにを学び、どのような知識と理解を活用できるものとして備えているかということは、社会のあり方にとって無視できない要素であり、政治家を選ぶ際にある程度吟味されてよいはずである。

 とはいえ、もちろん人はお互い万事に通じているわけではない。ではどうするか。リップマンとともに次のことを考える必要がある。

政治とふつう呼ばれているものにおいても、あるいは産業と呼ばれているものにおいても、選出基盤のいかんによらず、決定を下すべき人びとに見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。
(上巻49ページ)

 形のうえではそのようになっているケースも多い。だが、ここには大変な困難がある。「決定を下すべき人びとに見えない諸事実をはっきり認識させる」にはどうしたらよいか。伝えるだけでなく「はっきり認識させる」必要がある。つまり、その人物の疑似環境に訴えかける必要がある。

 だが先にも述べたように、人はより適切な事実や知識を与えられたからといって、「はいそうですか」と受け入れたり理解したりするとは限らない生き物である。利害関心もあれば、信じたいこともある。それに考えてみれば、人が脳裡にもっている疑似環境(世界像)とは、一朝一夕でできたものではない。そこには当人だけでなく、価値観を共有する人びととの関係も作用している。そう簡単には「認識させる」ことができないかもしれない。

 今回は『世論』冒頭の第1部第1章「外界と頭の中で描く世界」を紹介した。およそ100年前の本が、まるで他人事ではないように読めるという意味が伝わっていれば幸いである。

*この文章を書くにあたって以下の文献を参考にした。
神谷亘「コロナウイルスの基礎」(『ウイルス』第70巻第1号、pp. 29-36、2020)
 コロナウイルスの概要と構造を解説した論文。日本ウイルス学会が発行する学会誌『ウイルス』は同学会のウェブサイトで公開されている。

Coronaviridae Study Group of the International Committee on Taxonomy of Viruses, “The species Severe acute respiratory syndrome-related coronavirus: classifying 2019-nCoV and naming it SARS-CoV-2”, Nature Microbiology 5, 536-544 (2020).
 nature microbiology誌に掲載された新型コロナウイルスの分類と命名について解説した論文。同誌のウェブサイトでオープンアクセスの記事として公開されている。

『日経サイエンス』(日経サイエンス社)
 非専門家にも読める科学雑誌として『日経サイエンス』がある。同誌では、2020年5月号の特集「新型コロナウイルス」を筆頭として変化する状況に応じながら、随時このテーマについてフォローしている。6月号緊急解説「新型コロナウイルス感染症 COVID-19 感染拡大に立ち向かう」(出村政彬)7月号特集「COVID-19パンデミック」8月号特集「解明進む 新型コロナウイルス」9月号特集「COVID-19 終わらないパンデミック」10月号特別解説「新型コロナウイルス 免疫系の戦い」(出村政彬)11月号特別解説「COVID-19 見えてきた治療薬」(出村政彬)12月号特集「長期化するCOVID-19」2021年3月号特集「COVID-19 重症化の謎」4月号特集「混迷のパンデミック」5月号徹底解説「COVID-19 ワクチン接種」6月号特別解説「COVID-19 危うい後遺症 体内で何が起きているのか」(出村政彬)7月号「COVID-19 国内で広がる変異株」(出村政彬)。科学の知見を知りたい読者に勧めたい。

ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫青943-1、2005)
 生物はそれぞれの種に固有の体のかたちや機能に応じて、「同じ」環境でも異なる知覚をしている。例えばヒトとイヌとダニとでは、同じ場所でも知覚の仕方が違うというように。ユクスキュルはこれを「環世界」と呼んだ。同書は生物について論じたものだが、その「結び」では、人間の場合、専門が違えば環世界が違うと述べている。天文学者と深海研究者と感覚生理学者では、世界の見方が違うというように。リップマンの議論と重ねて読んでもよいだろう。
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
コーエーでのゲーム開発を経て、文筆・翻訳、専門学校・大学での教育に携わる。立命館大学大学院講師を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。
著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)ほか。共著に『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満と共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川との共著、筑摩書房)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川との共著、太田出版)ほか。
twitter @yakumoizuru

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