株式会社SYSTEM_CONCIERGE1_

ドラえもんのいる社会を実現させたい! 開発好きな社長の目指す未来

僕が社長になった理由-田子智志さん-
IT企業の社長歴12年という田子さん。本当に開発のお仕事が好きだということがよくわかるお話でした。でも、ここに至るまでには、ヤバイときも含めて(笑)、いくつもの遠回りがあったそうです。会社の成長を考えながらも、自分が目指す子どものときからの夢の実現。人生にはきれいごとばかりじゃないという現実味のあるお話を聞かせてくださいました。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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田子 智志(たご さとし)さん

株式会社System Concierge 代表取締役社長
株式会社PID取締役

2008年10月 VARCHAR(現System Concierge)創業
(2010年神保町へ移転、増資)
2012年株式会社レピカと資本提携⇒2013年子会社化
(2012年赤坂へ移転⇒2013年南青山へ移転)
2017年7月 合同会社PID 設立
2018年3月 コンサル事業開始、株式会社PIDへ組織変更
2018年5月 増資により資本金2,277万円
(2018年9月 新橋オフィスに移転)
2019年4月 増資により資本金(準備金含)3,292万円
2019年5月 PROPERTY CONCIERGEサービスイン
同月 情報検索システム等で特許出願[特願2019-093010]
2019年11月 社名を System Concierge に変更 

ドラえもんを作りたい! 
そう思い科学者になることを夢見た幼少期

 僕は福島の常磐ハワイアンズがあるもっと山奥で育ったんです。小学校に入る前かな、親戚のおばさんに買ってもらった『ドラえもん』のマンガ本。しかも7巻と8巻という中途半端な巻(笑)。でも、僕はそこからドラえもんを作りたいって思うようになったんです。だから最初の夢は科学者。コンピュータとかまだ当時は家庭で持つようなものじゃなかった時代、父が買ってくれた任天堂のファミリーベーシック、これで簡単なプログラミングを楽しむような子どもでした。

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 その勢いで、福島の高等専門学校(高専)へ進学しました。高専ってめちゃくちゃ厳しくて1年のときに単位を取れず中退することになりました。それもそのはず。親元を離れた下宿生活だったんですが、自由を満喫したい友だちや先輩たちが夜な夜な集まって遊びまくっていたんです。中退はしたけど、その時期に学んだ社交術はその後も大きく役立ってます。転入したのは、偏差値最下位みたいな高校です。大学進学する人なんてろくにいない学校で、授業も中学の復習程度でした。仕方なく自力で勉強して大学を目指し、一浪して東京の大学へ進学することができました。

 大学時代は、父親の知り合いのツテで東京出版という会社でアルバイトを始めました。出版社なんですが、塾もやるし教育ソフトも開発するし、なんでもやる会社で、そこで文字通りなんでも手伝わされていました。プログラミング開発も見よう見まねで作ってみたり、営業っぽいことや塾講師もしました。社長には後継者がいないって話だったので、僕が後を継ごうなんて勝手に考えていました。
 当然、そこに就職する気だったのですが、社長から「大企業とかを見てきた方がいいよ」と言われ、慌てて就職活動をすることになりました。すでに4年生の秋のことです。困って就職課で相談したところ、システム系の会社を紹介してくれました。年明けの卒業に向けた試験を終えたあと、面接に行くと特別な計らいで4月入社が決まりました。当時、エンジニアできる大学生なんてほとんどいないので、ゼロからパソコンの使い方を説明するような状況が普通だったのですが、僕は自分でプログラミングまでやっていたってことで、即戦力として採用されたのです。

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エンジニアとして働きだした一方、大好きなゲームツールを開発していた田子さん。ゲーム業界への転職を希望するもタイミングが合わず、しばらくは引きこもり生活をしていたと言います。社会復帰するまでのお話をどうぞ!

引きこもり生活で借金は600万円に!
死と向き合ったことも

 就職してエンジニアとして活躍しながら、当時はやっていたゲームのオフ会なんかにもよく参加していました。僕は趣味的にゲーム用ツールを開発していたため、「ゲームの仕事を一緒にやらないか?」という誘いを受けました。大好きなゲームの仕事ができるということで、即退社を決意して会社に申し入れましたが、現在進行中の案件を放置できないということで説得されました。とはいえ、仕事のやる気も出ず、会社でもぼーっと過ごすような日々。見かねた上司から退社の許可をもらえました。

 ところが、声をかけてくれた会社には断った後だったため、今さら就職もできず、行き先がなくなりました。毎日家に閉じこもってゲームしたり、PCをいじったりして2か月くらい引きこもり生活を送っていました。じつはそのとき、僕は人生の最悪時期で、金融ローン含め600万円くらいの借金を抱えていたんです。
 どうにもならない気がして、生きている意味さえわからなくなっていて団地の12階のベランダから「飛び降りちゃおうかな」なんて考えたことさえありました。

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 ぎりぎりの状態でも生きていると、気持ちは少し前を向きます。バイトでも始めようと思い、コールセンターでのバイトを始めました。時給1000円です。1か月がんばってもせいぜい手取り24万円程度。とても借金返済にまでは手が回りません。

 そんなとき、コールセンターで請け負っていたマイクロソフトのプロジェクト案件があり、僕がエンジニア領域に明るいってことで打ち合わせなどに呼ばれ、コールセンターでのスーパーバイザー的な役割を担うことになったんです。スキルの高さを買われてヘッドハンターから紹介されたエンジニアの仕事を受けるようになります。時給2500円の仕事です! しばらくはコールセンター業と掛け持ちしていましたが、どんどんエンジニアの仕事が増えて、こちらに専念するようになりました。月に50万円以上も稼げるようになり、借金もかなり返済できました。

目指してきた社長になった今、
次に目指しているのは研究者になって未来づくり

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▲立ち上げ当初の社名はVARCHARでした。2019年末に社名変更。

 1年くらいするとその会社から正社員で働かないかというオファーをいただき、お受けしました。そもそも自分は社会人になるとき、大学時代のバイト先の社長のように、自由に好きなことをなんでもやれる、そんな人生にあこがれて社長になりたいと思っていたんです。この会社でも、目指すは次期社長です。自分が未来背負う会社だと思い、ものすごい献身的に働きました。エンジニアとしての仕事はもちろん、今まで手がつけられていなかったような研修制度を作り上げたり、会社がよくなるためだと思うことを積極的にやっていました。実際、会社のオーナーである会長からも「おまえが次期社長だ」と言われるぐらいになっていました。
 ところが、当時の社長のお気に入りの子が現れて、その子を次期社長にすると言い出しました。それどころか、横領めいたことまで起こり、社内の空気がおかしくなってきてしまいました。辞めていく社員も後を絶たず、自分もやる気をなくし始めていました。そんなとき、会長から「おまえも会社を辞めて独立しろ」「必要なら資金援助もしてやる」と言ってもらい、独立の覚悟を決めました。

 2008年6月に退社し、当時一緒に辞めたメンバーと会社を立ち上げました。ところが、その後すぐのリーマンショック。続いて東北大震災まで、ほとんど自転車操業状態でした。2011年に震災後の復興関連で急ぎのプロジェクトがあり、それをなんとか成功に持って行けたあたりから風向きが変わり、好条件が集まって今に至っています。そのときに出会ったメンバーがジョインし、2つ目の会社を設立しました。

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▲スーパーシティ/スマートシティフォーラム2019に出展。担当大臣の片山さつきさんと。スマートシティは現在力を入れている事業のひとつだそう。

 僕が特に力を入れているのは、「ドラえもんのいる未来を作ること」です。つまりイマドキの言い方をするとスマートシティです。僕は根っからのプレイヤー気質で、自分でいろいろ開発することが楽しくて仕方ないんです。いずれは、経営を任せて、僕はドラえもんを作るための研究所で、ワクワクする未来を作る仕事をしていくことに専念できればいいな、なんて思っていたりします。

インタビューの最後に「僕の高校生の長女が、大学のオープンキャンパスに行ったときに、友だちに聞かれて“私はドラえもんを作りたいんだ”と言ったんです」とうれしそうに教えてくれました。「小さいころからドラえもんで育ててきたんですが、まさか自分と同じ言葉を言うとは。ちょっと感動しちゃいました」親子で紡ぐドラえもんのいる未来。かくいう私も大のドラえもん好き。ドラえもんに会える日を楽しみに待っています!



下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!