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祖母からの洗脳で、31歳で家業の社長に就任。苦しんだ日々と、これからのビジョン

僕が社長になった理由-西村公作さん-
覇気があってまっすぐな日本の社長さん。西村さんからはそんなイメージを受け、好感度しか持てません。とはいえ31歳という若さで家業を継いで社長になり、最初のころはかなり苦労していたそう。そこから試行錯誤を繰り返し、今に至ったといいます。事業継承の大変さや社長としての成長の大切さ、そして自分のビジョンを達成させるためには、業種にこだわらず、地方の抱える課題に取り組むことの重要性を教えてもらいました。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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西村 公作(にしむら こうさく)さん

晃和興産株式会社 代表取締役社長
昭和46年11月に山口県柳井市で誕生
大学を卒業後、家業と同系列の会社で修行を積み、29歳で戻る
家業で働いていた31歳のときに、
昭和31年6月4日創業した祖父の会社である晃和興産の代表に就任

祖父がつくった会社の跡継ぎとして
祖母からの期待をかけて育てられました

 当社は祖父である西村弥久松が昭和31年6月、穀物や塩を収納するワラで作った「かます」という袋の製造販売からスタートしました。その後、時代の流れに沿ってガソリンスタンド事業、LPガス事業、リフォーム事業と業務を拡大し、現在に至っています。
 私は、昭和46年11月に山口県柳井市に生まれました。私が3才のとき、当社の代表を務めていた祖父が他界したのですが、父には他にやりたいことが出来たため、会社の経営を継ぎませんでした。祖母にとって私が希望の星だったようで、毎日念仏のように「あんたは将来社長になるのよ」ということを唱え続け、私はしっかりと洗脳されていったのです(笑)。

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 父は大阪にある大手呉服店に入社したため、幼稚園時代はだんじり祭りで有名な岸和田市で過ごしました。その後、呉服販売の経営コンサルタントとなった父に連れられ、小学校から中学3年の1学期までは岡山市で育ちました。小学時代はソフトボール、中学時代は卓球部に所属しました。2回の転校を向を重ねる中で「転校の向のコツ」をつかむと同時に前の居住地の言葉の珍しさも手伝って、今でもお付き合いを続けている多くの友人と出会う事ができました。
 中学3年の2月期に家族共々、柳井市に戻り柳井高等学校に進学しました。日本史が得意で、特に鎌倉時代が好きで武士道を学びたいと考え弓道部に入部しました。
 当初、男女一緒に練習できるのではないかと楽しみしていましたが、入ってみると別々で非常にがっかりした記憶があります(笑)。翌日の練習のために練習後に1時間程度かけて的を準備する「的張り」の作業は下級生の役割ですが、薄着の袴姿で行っていたので冬場の寒さは骨身にしみました。残念ながら、5人のレギュラーメンバーに選ばれず、選手として実績らしいものはありませんが、精神を統一し的に全神経を集中する弓道のお陰で集中力を培うことができたと思っています。

祖母の洗脳に負け(笑)
就職先は子弟教育制度のある会社へ

 武士にあこがれ、歴史好きが高じ、高校卒業後は京都で浪人生活を送ることになりました。父が経営コンサルタントの事務所として利用していたマンションが市内中心部にあり、滋賀大学経済学部に進学後もそこから通っていました。勉学の傍ら、深夜のコンビニや教育関係のアルバイトで知り合った仲間達との交流を通して充実した学生生活を送りました。

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▲柳井町で開催される金魚ちょうちん祭りでは、一番の盛り上がりを見せる金魚ねぶたの引き回しを毎年行っているそうです。

 就職活動を始めた頃、父の京都の事務所を閉めることになり、自分で部屋を探さなければならなくなり、家賃3万円のアパートに引っ越しました。当時はバブル経済が崩壊して就職氷河期に入り始めた頃でしたが、金融、証券会社などを中心に採用試験を受け、1社から内定をもらいました。 
 相前後して、当時の当社社長から「出光興産が主催する系列店後継者向けの子弟教育制度に申し込まないか」と連絡があり悩みました。そもそも就職活動を行ったのも異業種に身を置きながら経営の勉強を積み、その後に家業に戻りそのキャリアを活かしていこうという考えがあったからです。最終的には、祖母の洗脳?(笑)が決め手となり内定していた企業を断り、出光興産の子弟教育制度を利用して同社に入社する決心を固めました。

 赴任先は札幌で、どんなにつらくても実家に簡単には逃げ帰ることができない距離に置かれ、ビシバシ鍛えられました。かなり体育会系の仕事のやり方でした。2年半のスパルタコースを終えて、やっと実家に帰れると思ったところ、3代目の社長となった方から「まだ帰ってくるな」との言葉。そこで次の赴任先、群馬で3年間働くことになります。群馬での生活はもちろん勉強にはなりましたが、いちばんの収穫は嫁をもらったことです(笑)。同じ会社にいた女性と結婚して、そのまますぐに山口に連れて行ってしまったので、会社としては社員がマイナス2。今でも当時の上司にお会いすると、「おまえは群馬に嫁探しにきただけだ」と言われています。

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▲晃和興産のホームページでは、社員がイキイキ働いている様子がよくわかる写真がいっぱいです。

当時を振り返って、祖母からの洗脳活動を楽しそうに語ってくれました。自分の過去をさらけ出して楽しく話せるかどうかは、きっと自分の今の現状に満足できているかどうか、がポイントなのかもしれません。いざ、社長業がスタートした西村さんがぶつかった壁とはどんなもので、それをどう乗り越えていったのか、教えてもらいました。

31歳、想定以上に早い社長就任
なかなか受け入れてもらえない現実。。。

 当社には29才で入社後、30才で取締役、31才で代表取締役社長に就任しました。自分自身のキャリアプランでは社内実績を積みながら40才で取締役、50才で専務取締役、60才で代表取締役社長に就任などと長い時間軸で考えていたこともあり、いざ就任を要請されると即答できませんでした。一晩かけて腹をくくり翌日に就任を受諾しました。

 私が入社したときは、ガソリンスタンド事業を筆頭にLPガス事業、管工事事業の3つの事業が柱となっていました。平成8年の特定石油製品輸入暫定措置法の廃止以降、ガソリンスタンド業界を取り巻く環境は厳しさを増していました。加えて、公共工事に依存していた管工事事業は不採算部門となり、全体の足を引っ張っていました。

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 社長就任後、部門別の採算状況を調べたところ、管工事は営業損益段階で約2000万円の損失を計上していました。同事業には職人を含め約10名の社員がいましたが、赤字であることを誰も知りませんでした。社員には「赤字なので何とかしなければいけない」と危機感を持ってほしかったのですが、部門長をはじめ部署全体からは就任したばかり私に対し、口には出さねど「管工事のことを何も知らないくせに」という雰囲気が漂っていました。
 私としては、官公庁からの大口案件を減らしつつ、個人からのリフォーム案件を増やすことで利益率の改善を図っていくというソフトランディングの方針転換を考えていましたが、結果的に同事業に携わる社員全員が会社を去ることになりました。なぜ辞めていくのか不思議でしたが、不採算部門から撤退し新しい事業の柱をつくらなければいけないと考えていた時期と重なっていたので結果的に良かったのだとその時はそう感じていました。

ベテラン幹部の辞表から学んだ
社長として必要な考え方や伝え方

 ところがある日、管工事とは違う部門のベテラン幹部が辞表を提出してきました。どうやら実情を理解していない社員たちは、単純に社長自身が詳しくない部門を切り捨てたと捉えていたようでした。それ以降、社員が辞めていく原因はもしかすると自分にあるのではないのか?と考えるようになりました。
 その答えを求め、経営者向けの書籍を読み漁り、セミナーにも参加しました。その中で、一倉定氏の著書『一倉定の経営心得』に出会い、「会社の中で起きていることはすべて社長の責任」という考え方(転原自在)を学び、全身にカミナリが落ちたような衝撃を受けました。何事も他人のせいにするのではなく、自分の中に原因があるのだと心から思うようになると、肩の力が抜けて楽になりました。

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 それからは、相手の気持ちを意識した話し方を心がけるようになりました。また、信頼関係を築くためにはとにかくコミュニケーションが必要と考え、幹部をはじめ幅広く社員から話を聞くために、杯を酌み交わすことも積極的に始めました。自分の考え方を一方的に押しつけるのではなく、徐々に幹部や社員の考え方などが理解できるようになったと思います。今でも、それぞれの社員に対して一番のコミュニケーション方法は何かを意識して対話するように心がけています。

 すでに山口県東部地域では人口減少や一人暮らしのシニア世帯、空き家の増加など、市場が小さくなる兆候が出てきています。そんな今だからこそ、私たち晃和興産が“ふるさと”のお役にたてる絶好の機会であると捉えています。長年ガス屋として培ったノウハウを活かし、2017年にリフォーム事業部『まごのて倶楽部』を立ち上げました。お客様の理想のリフォームをスピードで実現することを目的に、かゆいところに手が届く「まごのて」のような存在ありたいというコンセプトで多くの受注を頂くようになりました。
 また2019年の11月に、ハウスクリーニングや害虫駆除、草刈り、障子の張替え等々、どこに頼んで良いのか分からないような小さな困り事をワンストップで解決する、生活支援事業『ベンリー柳井店』を立ち上げました。

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 今後も、世のため・人の為になるような価値あるサービスを創り続け、「お客様によろこばれる仕事」をモットーに、お困りごとをスピードで解決できる「暮らしの総合商社」として、地域社会にとってなくてはならない「絶対に必要な企業」をめざしていきます。

社長になっても学び続け、それを素直に受け入れる西村さんは、多くの発見を喜び、すぐに会社でも実践していきます。ホームページを拝見すると、飛び出さんばかりの勢いある笑顔の社員のみなさん。いい会社に違いない、そんなことを感じさせます。エネルギー会社社長らしく、情熱を燃やし続けて、今後も柳井町から山口県を、そして日本を元気にしていってください。


下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!