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教師の現状と、日本の教育の問題点。静岡から教育を変革していきたい!

僕が校長になった理由-八木邦明さん
校長先生へのインタビューは初めてで、学校経営というものをどう捉えているのか楽しみにしていたところ、話はまさかの方向に。。。教員としてのゴールともいえる校長職では満足できずに、新たなチャレンジを次々にしている八木さん。今後の静岡や教育について、大きな野望を持って突き進むそのバイタリティのヒミツを教えてもらいました。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

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八木 邦明(やぎ くにあき)さん

静岡市立賤機中小学校校長
ファーストキャリアは東京都小平市の教員。
その後故郷の静岡県に戻り教員となる。
ロンドンの日本人学校を経て、再び静岡県に戻る。
静岡県教育委員会 指導主事を経験し、その後中学校教頭、小学校校長に。

金八先生にあこがれて中学の教員に
荒れた生徒たちとガチンコで向き合う日々

 田舎育ちなので、それこそ親からは公務員になるように言われていましたが、自分はそんな親に反発して、テレビのディレクターになりたいと思っていました。そのために親から離れた東京の大学を受けました。ただ、行った大学は教員を養成するような学校でした(笑)。しかも、マスコミの就職の難しさは聞いていたので、自分のように特に経験もスキルもない学生には厳しいだろうとは思っていました。そんなときに行った教育実習がおもしろかったので、教員になることを決意しました。金八先生を見ていたこともあり、思春期や部活がある中学校の教員になろうと思っていました。
 静岡には帰らず、東京の小平市の教員となりました。初年度に行った中学校はかなり生徒指導が大変でしたね。毎晩のように先生たちと飲んでは「明日も頑張ろう!」と気合を入れて帰る、そんな日々でした。大変だったけど、少しでも生徒たちを盛り上げようと、学校行事のときには教員自らが張り切って企画を考えて楽しんでました。最初は校歌なんて歌わない生徒たちだったんですが、4年後にはみんなで校歌を歌って卒業する、そんな学校になりました。

 4年後静岡に戻って教員になったのですが、静岡では今までのキャリアがカウントされないため、初任扱いで副担任からのスタートでした。今までの刺激的すぎる暮らしと担任がない生活とでは、ギャップが大きすぎました。新しいことを始めたい気持ちが芽生え、以前聞いた海外の日本人学校へ行くことを考え始めました。実際に応募したのは少し先なのですが、無事に選考を通って、静岡に戻って6年後、ロンドンの日本人学校へ行くことになりました。日本企業の駐在の方たちの子どもが通う学校で、私立の附属中学のような印象でしたね。3年間の英国生活期間にしかできない体験をいろいろしようと、プライベートでも満喫できた期間です。

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同じく教員をしている奥さんも休職を取り、生まれたばかりのお子さんと一緒にロンドンに行ったのだそう。体育教員の奥さんは英国で2人目を産み、産後すぐにロンドンマラソンに出場し完走したというパワフルウーマン。順風満帆で日本に戻った八木さんを襲ったのは、衝撃的すぎる事件でした。

ロンドンでの優雅な生活から一転
大事故発生! つらく厳しい立場に…

 日本に戻った教員生活5年目に、僕が担任をしていたクラスで大きな事件が起こりました。2月の受験シーズンということもあり、みんながナーバスになっている時期でもあり、僕はその事件の原因を受験だと思ってしまったのです。でも、本当はそうではありませんでした。しかも事件前日に、僕は当事者と話をしていたのに、それを見抜くことができませんでした。その子も含め全員が無事に受験を終え、卒業することはできましたが、そのことで自分をかなり責めていました。
 当時は、かなり精神的に参っていたと思います。臨床心理士のカウンセリングを受け、自分の気持ちを吐き出すことで、こんなに気持ちがラクになるのか、ということを知りました。このことがキッカケで、カウンセリングや心理学に興味をもち、個人的に東京に心理の勉強に通ったりするようにもなりました。

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 翌年から学年主任として頑張るように校長から任命されましたが、 大きな事件のあとだったので、居心地は最悪で、なかなか前向きにはなれずにいました。でも、やると決めたら、不思議と気持ちが切り替えられま した。
 学年主任には担任するクラスがないのですが、僕は8クラス全部が僕の担任クラスだと思うようにしました。そこで始めたのが、毎週、学年だよりを発行することです。学校で起こった出来事を詳細に報告し、具体的な生徒も登場するカタチで紹介していきました。1年生から3年生まで継続して学年主任を担った結果、彼らの卒業式ではみんなが泣ける最高の式にすることができました。また、僕が発行し続けた学年だよりへの保護者の方からのコメントと合わせて、僕の宝物のひとつになっています。

教員としての最高キャリアである校長に就任。
さらに、新しい挑戦をスタート!

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▲学びの自己投資を惜しまず、東京等にも精力的に訪れ、 教育業界だけでなく経営者向けの研修など多岐にわたって参加しているという八木さん。変化 の激しい社会の中での教育の在り方を追究しているのだそうです。

 5年間の教育委員会を経て、教頭として現場に戻りました。行った学校はまたしても生徒指導困難校。暴力沙汰を起こして施設に行くような生徒もいました。毎日のように問題が起こり、僕が対応していたのですが、そのころもかなり精神的につらかったですね。大変なことも多かったし、理解するのに時間もかかりました。でも、事件を起こして施設に行った子とも、卒業後のいまでも相談に 乗る付き合いをしていますよ。
 その後、まさかの小学校で校長となることが決まりました。見知らぬ環境で、最初は嫌で嫌で仕方なかったですね。そんな中、校長が集まる勉強会のようなところで、山下校長という方のお話が非常に刺激的でした。彼は小学校と中学校の校長を務め、それぞれ改革を推進していった方でした。彼の話から小学校でやれることはたくさんあることを知り、じっとしているのはイヤで動き始めました。いろいろと教育業界の可能性を探っているうちに、自分でもやっていきたいと思うものに出会えました。

 たった一回の人生で、自分は何をするのか? そう考えたときにこのまま校長としておとなしく終わるのではなく、静岡市から日本を変える先駆けとなるようなことをしていきたいと思い、前出の山下さんと共にシズクリプロジェクトを立ち上げ、推進していくことにしました。プロジェクトの目的は、静岡愛に溢れ探究心旺盛な人材をたくさん輩出 すること、地域創生の魁となることです。 2019年秋にテストケースを行い、2020年度から本格スタートさせ、僕自身も新しい人生を出発させます。

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▲八木さんご自身の書。人との縁の大切さを大切にしている八木さんらしい
インタビューをしたときから数か月の間に、聞いた内容がどんどんアップデートされていき、あっという間に次のステップへ進んでいってしまう八木さん。彼の周りには熱い想いを持った人たちが集まっています。学校教育を子どもたちの未来を、静岡の街をよくしていきたいと願う人たちです。彼らの想いをひとつにこれから進んでいく姿に、負けないよう私も追いかけていきたいと思います。

下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!