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【サトシの履歴書①誕生~高校時代】納得できないことはしない。そんな、今と変わらぬ少年時代。

株式会社いわきスポーツクラブ代表取締役・大倉智の半生を、本人の語りで振り返ります。第1回目は、アメリカと大分、そして川崎で過ごした少年時代から、高校時代までを語ります。

▼プロフィール
おおくら・さとし
1969 年、神奈川県川崎市出身。東京・暁星高で全国高校選手権に出場、早稲田大で全日本大学選手権優勝。日立製作所(柏レイソル)、ジュビロ磐田、ブランメル仙台、米国ジャクソンビルでプレーし、1998 年に現役引退。引退後はスペインのヨハン・クライフ国際大学でスポーツマーケティングを学び、セレッソ大阪でチーム統括ディレクター、湘南ベルマーレで社長を務めた。2015 年 12 月、株式会社いわきスポーツクラブ代表取締役就任。


サッカーで居場所を確保していった。

サッカーボールを初めて触ったのが5歳。両親にグランドに連れて行かれたのですが、正直その時は嫌々。でも、それがきっかけで当時住んでいた神奈川県川崎市百合丘のサッカー少年団に入ることに。

そこで出会った僕にとって初めてのコーチが、当時、国士舘大学サッカー部の監督を務めていた大澤英雄先生(現国士舘大学理事長)。そのころは、大澤先生にその後ずっとお世話になるとは思ってもいませんでしたね。

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ウチは両親とも早稲田大学出身で、父は日本テキサス・インスツルメンツという半導体企業に勤めていました。父の転勤で、小学2年の時にアメリカのダラスへ。嫌々始めたサッカーもそのころには大好きになっていて、サッカーボールを常に持ち歩き、普段からスパイクを履いていたぐらいでした。

アメリカの学校スポーツはシーズン制ですから、サッカー以外に野球やアメフトもやりました。打ったら三塁に走るような少年だったので、野球はもちろん補欠。でもサッカーでは立派なエース。友達とプレーするだけでなく自分でも練習したりと、1年中やっていましたね。

アメリカに行ったばかりのころは英語が話せず、周囲になかなかなじめなかった。そんな自分を助けてくれたのがスポーツ。特にサッカーで、自分の居場所を確保していきました。

当時のアメリカには日本人に対する偏見がまだ残っていて、苦い思い出もありました。

ある時、日本について勉強する授業があり、日本の映画を見たんです。内容は時代劇で、着物とちょんまげの侍が出てくる。それを見てみんなが「日本はこんなに変な国なんだね」と言う。でも、英語がダメだから反論できなかった。この時は悔しかったですね。

3年間のアメリカ生活でしたが、もちろん甘い思い出もありますよ。ある日の休み時間、メキシコ人の女の子に、ロッカーの裏にいきなり連れて行かれ…唇を奪われました。これがいわゆるファーストキスというやつで(笑)、今も鮮明に覚えています。

「髪を切れ」と言われるも納得できず…。

小学5年で帰国後は大分へ。「朝日サッカースポーツ少年団」で相変わらずサッカーに明け暮れ、「大分で10年に一人の逸材」なんて言われたこともあります。

そして卒業文集に「正式なサッカー選手になりたい」と書きました。当時の日本にはまだプロサッカー選手がいないから、そう書いたのだと思います。

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中学受験をきっかけに川崎に戻りましたが、不合格。地元の長沢中学に入り、もちろんサッカー部に入部しました。

当時、アメリカで流行っていたおかっぱ頭だったのですが、母親に「日本にそんな髪型の子はいないから、耳を出しなさい」と言われまして。ウチの母親はいわゆる教育ママで厳しかったんです。でも納得できず、耳を半分だけ出すというささやかな抵抗をしました(笑)。

当時、中体連の規則が厳しくて、髪の毛が耳にかかると試合に出場できない。そのため、髪を無理矢理切られたことがあります。その時はいったい何のためなのか理解できず、嫌がったのを覚えています。

自分が納得できないことはしない性格は、当時から変わっていません(笑)。

強豪校の練習に、必死で食らいつく日々。

高校は進学校であり全国ベスト4の強豪・暁星高校を選びました。

実は最初、その年の全国高校サッカー選手権大会で優勝した静岡県立清水東高校が第一志望でした。

榎克己、長谷川健太、堀池巧の「清水東三羽ガラス」にとにかく憧れて、子どものころからお世話になっていた大澤先生に相談。越境受験の資格を得られたものの、学校に行ってみると、当時中3の僕にはあまりにも田舎で…。親もそれを察して暁星高校を勧めた、という裏話もあります。

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暁星高校では、東京サッカー協会の会長でもある恩師の林義規先生が高校3年間、僕を育ててくれました。

初めて練習に参加した時は、カルチャーショックを受けたのを覚えています。部員が全員、スポーツメーカーのかっこいい練習着にスパイクという出で立ち。それなのに僕は上下中学の名前入りの体操服で、靴はトレーニングシューズ。家に帰ってすぐ、母親とスポーツショップに買い物に行きましたよ(笑)。

自分が全国でどの位置にいるのか。それを意識し始めたのがこのころです。

中学では川崎市選抜に入りましたが、全国はなかなか見えなかった。それが全国ベスト4の高校に入ったわけですから、レベルが違う。毎日、必死で食らいついていきました。

幸い高2で国体の選抜チームに選ばれたこともあり、だんだんと中心選手になっていくことができました。

チームメイトとは、仲良く楽しくやっていましたね。毎日サッカー漬けの高校生活で、残念ながら色恋沙汰はなし。硬派です。それでも、近くの女子高生にはモテていましたが(笑)。

サッカー漬けの毎日とはいえ、勉強もコツコツとやっていました。早稲田を目指した理由は単純。「清水東三羽ガラス」の大榎克己さんが早稲田でサッカーをしていたからです。入ると決めたら一心不乱に頑張り、無事に商学部に入学しました。

そこから、東伏見の4畳半での寮生活が始まります。

(続く)

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