困難への覚悟、その先に見える景色。監督・田村雄三その②【Voice特別編】
フリーライターの川端康生さんによる、田村雄三監督の特別インタビュー。第2回では、今につながるプロ入り後の気づき、そして監督という仕事について語ります。
取材・文/川端康生
■特別なシーズンを経て気づいたこと。
「いま(監督として)選手に『チャレンジしろ』とか言ってますけど、自分はチャレンジするところまでいってなかったかもしれません。
任されたことを100%、120%やります、というだけで、自分がこういう選手になりたいとか思ってなかったし、自分が成長してるのかどうかもまったくわからなかった。
もしかしたら、サッカー選手として大成しようという気持ちがあまり強くなかったのかも…」
湘南入団後の自分について田村はそんなふうに語った。
実際にはルーキーイヤーから24試合に出場。その後もコンスタントにピッチに立ち続けた。チームのために献身的にプレーする彼が不可欠な存在だったからだ。
評価の高さと信頼の厚さは、監督が代わっても常にメンバーに起用され続けたことが証明している。
にもかかわらず、「チャレンジするところまで……」と本人が感じているのは2009年の経験があるからかもしれない。
前年にあと一歩まで迫ったJ1昇格を、湘南が本気で獲りに行ったシーズンだ。
新たな指揮官として反町康治も招いた。
「反さんが4-3-3のアンカーシステムを採用したんです。あの頃、まだ日本ではあまりやってなかったシステムだけど、アンカーができそうな奴がいるから、と。田村がいるから、と。
うぬぼれかもしれないですけど、『お前がいるから』というようなことを言ってくれて…。初めて自分が求められた気がしてすごく嬉しかったのを覚えています。でも…」
でも、求められたタスクも極めて高かったのである。
「『60メートル幅を一人で守れ』と言われて…。はじめ『そんなの絶対無理だよ』と思いましたけど、それでも毎日シャトルランして、体力つけて、とにかく走って、相手潰して、掃除して…とやってたら、いつの間にか守備範囲が広がって、守れるようになってて」
それまでよりずっと困難な役割を要求されたことで、それまでよりずっとハードな挑戦を余儀なくされたからこそ、田村はそれまでより高みに到達することになったのである。
そして「これがチャレンジだとすれば、これまでやっていたのはチャレンジではない」。もしかしたら、そんなふうに感じたのかもしれない。
重ねれば重ねるほど、過去のそれはチャレンジとは感じなくなっていく。挑戦とはそういうものだからだ。
いずれにしても、この2009年は彼にとって特別なシーズンとなった。
湘南がJ1への復帰を果たしたのだ。実に10年ぶり。それも最終節の逆転勝利による劇的な昇格劇だった。
そんなチームにあって、田村は指揮官の期待に応え、中盤を支え続けた。それまでとは違った充実感に満たされたに違いない。
喜びの中で、改めて気づいたこともあった。
「それまで僕はいつも与えられたことを全うしようと思ってやってきただけだったけど、もしかしたら指導者は僕の可能性を見抜いていて、田村にこういうことをやらせたらこういう選手になると考えて、タスクを与えてくれていたのかもしれない。それによって僕は知らず知らずのうちに成長してきたのかもしれない、そんなことを思うようになったんです。だから、いまの選手たちにも…」
■カルチャーを根付かせ、フィロソフィーを広め、存在意義を明確にする。
難しい昨シーズンを乗り切り、プロ監督として1年目を終えて、「(就任するときは)連敗したら焦るかなとか思ってましたけど、意外と平気でした。ブレずにやることができた。大量失点しても全然引きずりませんでしたし」と田村は笑う。
当然、選手たちには「チャレンジ」と言い続けた。
「本来とは違うポジションで選手を起用したりして、残留争いしているのにそんな余裕あるのかと言われたりもしましたけど、やっぱり自分で限界を決めてほしくない。挑戦すれば、もっと成長するかもしれないですから。選手のストロングを見て、彼らの可能性を広げてやりたいんです」
そこに、自らも監督によって成長を促されてきたという思いがあることは言うまでもない。最近改めて、「結局、湘南時代に経験したことが全部いまにつながっている気がするんですよね」とも言う。
ピッチの中に限った話ではない。
「僕が入団した頃の湘南がプロと言えるような環境じゃなかったのも、いまとなってはよかったかもしれません。練習場はないし、観客は数百人なんてこともありましたから。
でも、そこから少しずつサポーターが増えて、会社も成長して、という過程をサッカーをやりながら感じることができた。クラブが目指す未来像があって、それを一緒に歩ませてもらっている感じもあったし、だからこそ責任感も出てきました。
引退した後のフロント経験も含めて、ホントあの頃やってきたことが、僕の中で全部いわきFCにつながっているんですよね」
だからこそ、いわきFCにやってきてから田村は「カルチャー作り」と言い続けた。時には試合後の会見でさえ、「いまは勝敗よりもカルチャー作り」と答えることもあった。
チームにカルチャーを根付かせ、クラブのフィロソフィを広め、存在意義を明確にすること。それこそがホームタウンとサポーターを創り、クラブを発展させることにつながると知っていたからだ。
■「次の景色」を見るために。
「いわきがいいなと思うのは、みんなが前を向いていることです。クラブもホームタウンも矢印が前向きに出ている。もちろんそこには『震災から』という背景があります。
当然、前に進めば新たな課題にぶつかります。でも、それを克服しようとしてまた前へ出る。とにかく前を向いていること。それがいわきは大事なんです。
だからサッカーもそうじゃなきゃいけない。前向きの矢印を出しながら、90分間倒れずに躍動する。サッカーのスタイルとか色々ありますけど、そこさえブレなければサポーターの心には届くはずです」
実は監督就任を躊躇しなかった理由もそこにあったらしい。
「いままでJリーグでは監督が代わるとサッカーも変わるチームが多かったと思います。そして、うまくいかないとまた監督を代えて、それもダメならまた次…という感じで。でも、それではクラブのフィロソフィを体現なんてできません。
そもそも監督はそのクラブのフィロソフィに合った人を選ぶべきなんです。その意味では、僕はこのクラブを作ってきているわけだからすんなりできる。もちろん自分のサッカー観を変える必要もない。だから、ブレるはずもなかったんです」
無論、勝負の世界だ。いつも順風なはずもない。
昨シーズンは降格圏から脱出。残留を果たすことができたが、勝てなければ批判の的となるのは監督である。
内心が揺れることだって、きっと…。
「勝てば選手が誉められ、負ければ監督のせい。そういう仕事ですから。批判されることは最初からわかってます。
もちろん一切の言い訳はしません。ダメなら責任を取る。その覚悟がないと監督を受けたりしませんよ」
そうだった。これまでだって逆境に身を投じてきたのだ。困難な役割を引き受け続けてきたのだ。
そんな覚悟はとっくにできているに決まっている。
それでも、あんまりきっぱり男らしいものだから、少し意地悪をしたくなって続けた。
そりゃそうだろうけど、色んな人が色んなことを呟いて、それが増幅して聞こえてくる時代だし、以前のように下部リーグじゃなくてJ2だし、存在感が増した分、矢は四方八方から飛んでくるし、ホントのホントは内心大変なんじゃないの?
「それは本音を言えば…もちろん苦しいときもありますよ、苦しくないと言えば嘘になる。
でも、プロフェッショナルって苦しむことでしょう。苦しくても苦しんでいるふうに見せないというか、何て言うんですかね…必死なんですよ。勝つために必死」
そうか、プロフェッショナルは苦しいものなのだ。挑戦とは必死なことなのだ。そして、だからこそ価値があるのだ…なんて得心していたら、田村がもう一つ、心の中を打ち明けてくれた。
「このオフ、『次の景色が見たいな』と思ったんですよね。
というのも、僕、このチームをサポーターが一人しかいないときから見てるんです。その頃、スタジアムが真っ赤になったら、もうお腹いっぱいです、とか言ってたんです。それが去年あんなに赤くなって……。
そしたら今度は、また次の景色を見てみたくなったんです。僕も見たいし、みんなにも見せてあげたいなと…」
いわきFC、次の景色へ――。
新しいシーズンがもうすぐ始まる。
(終わり)
▼その①を読む
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