見出し画像

「奇跡の島」岩崎貴行(五島zine創刊号、2011・4・25発行)※一部改訂

水平線の下に広がる群青とエメラルドグリーンの鮮やかな競演に、思わず身体、意識もろとも海の中に吸い込まれそうになった。2010年9月、長崎県五島列島の久賀島。ネオンや高層ビルの明かりが煌々と灯る「不夜城」の東京に長年暮らす私は、この日本にこのような手つかずの自然が残されていることに深い感動を覚えた。
そして、禁教下でも脈々と受け継がれてきた隠れキリシタン(潜伏キリシタン)の複雑な歴史や重厚な教会群の建物も相まって、「奇跡の島」という表現が真っ先に思い浮かんだ。
五島との縁はひょんなところから生まれた。私が取材先として親しくしている食品・外食コンサルタントの小島由光さんから、先祖が暮らした五島の支援活動を始めたと聞き、面白い取り組みだなと興味を持ったことがきっかけだ。その後話はとんとん拍子に進み、じっさいに五島をこの目で見てみることになった。
私の五島列島に関する知識と言えば、いわゆる隠れキリシタンが多数暮らしていたという学校の歴史教科書程度の知識しか持ち合わせていなかったが、自身もキリスト教徒である小島さんの情熱を目の当たりにし、私の中に眠る潜在意識や好奇心が覚醒したのかもしれない。
私は小島さんの勧めで五島の経済・行政の中心である福江島よりも、地元の人でもなかなか訪れない久賀島を中心に回ったため、いきなり五島の奥深さを見せつけられた。今でも脳裏に焼き付いているのが久賀島にある「牢屋の搾殉教記念教会」である。長崎の大浦天主堂に端を発するキリシタンの大量弾圧により、約200人が監禁・拷問され、この場所で42人が命を落としたのだった。私はその話を聞き、背筋に悪寒が走った。
そして、殉教者の名が刻まれた石碑を眺めて踵を返すと、監獄の跡地から見えた海が皮肉にも、残酷なまでの美しさを放っていた。私は殉教者がこの絶景のもと非業の死を遂げたことにいたたまれない気持ちになったと同時に、このような負の歴史こそ後世に伝えるべきだと痛感したのだった。
この時の五島滞在は2日間だけだったが、非常に得難い体験ができたと思っている。小島さんとともに一緒に島を巡ったカメラマンの野村裕治さんのほか、心あたたかい様々な地元住民の方とも知り合うことができた。魚や野菜をはじめとする五島の食は素材の良さが際立ち、申し分なかった。
私が五島のためにできることと言えば、こうして文章を書くくらいしかないのだが、これからも五島のよさ、とりわけ「奇跡の島」としての魅力やそこに住む人々の素晴らしさを伝えようと思っている。そしてもちろん、これからも折あるごとに五島を訪ねたい。
3月11日の東日本大震災は岩手、宮城、福島の3県を中心に壊滅的な被害が確認され、原発事故、いわゆるメルトダウンによる放射能漏れまでが現実のものとなった。私も震災発生日から現地取材、原発取材に追われ続けている。日本はかつてない危機的状況に立たされている。被災された日々人のために何かできることはないか、五島の皆さんも交えて熟慮する必要があると思っている。苦しいときこそ助け合う。これこそが日本人の世界に誇る特質なのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?