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青年将校―安藤輝三の二・二六事件 その4

五.襲撃

 実は、鈴木襲撃は安藤みずから志望したことであった。
 「私が鈴木侍従長を襲撃することになったのは私が同邸をよく知っていたので私が之を引き受けたからであります」
 安藤は、公判調書でこう述べている。「よく知っている」のは鈴木邸を訪れたからであり、その後ろには尊敬する鈴木を殺さねばならないのなら、みずからの手で、という安藤の苦渋の選択がみてとれる。
 ――そして、二十六日。すでに安藤の部隊は侍従長邸付近を五十メートルほど過ぎた道路上に機関銃を据え、警官隊の襲撃に備えていた。部隊を二つに分け、一隊を安藤が、もう一隊を永田露曹長が率いた。午前五時、安藤部隊は一挙に襲いかかった。表門は脇門が開いており、安藤らの一隊はそこから廷内に侵入した。
 一方の裏門は勝手口だった。兵士は銃剣の先で勝手戸を突き破り、錠をはずして侵入した。先頭の奥山分隊は震える女中を尻目に、どんどん奥へと進む。襖を銃剣で開け、三つ目に差し掛かった。侍従長の寝室である。寝床は二つあり、一つには年配の女性がただ正座して兵士たちの方を見ていた 。鈴木貫太郎夫人、たかである。
 「寝床はまだ温かいぞ!近くにいるから探せ」
 からの寝床に手をいれて、奥山軍曹が怒鳴った。兵士たちは襖を開け、次の部屋へ移った。そこは何もない八畳間である 。奥山分隊長は何事かを察知したのか、銃剣で押し入れの襖を突き刺した。
 「イタッ!」
 奥山軍曹の予想は当たった。そこに、寝間着姿の鈴木侍従長がたっていたのである。
 「見つかったゾー!」
 という兵士の叫びを聞き、他の者たちも駆けつける。下士官の一人が、侍従長を畳の上に引き倒した。
 「マテ、マテ、話せば判る」
 駆けつけた十数名の兵士たちを前に、両手を挙げて鈴木は言った 。奇しくも、五・一五事件で殺害された犬養首相と同じ台詞である。と、安藤と共に表から侵入した堂込曹長が突如叫んだ。
 「奸賊覚悟しろ!」
 たちまち二発の拳銃が発射され、一発は侍従長の耳、もう一発は胸に命中し、よろけるように倒れた 。安藤は屋内に侍従長が見つからないので一端外に出たのだが、銃声を聞いてその方向に急いだ。そこには、兵士たちに囲まれて倒れている鈴木侍従長と、夫人を見つけた。侍従長は、重傷ではあったがまだ息があった。下士官の一人は侍従長の首に拳銃を押しつけ、安藤に「とどめを刺しましょうか」と聞くが、安藤は
 「とどめは残酷だからやめておけ」
 と制止し、結局そのままに置かれることになる。鈴木はこの時のことを振り返って
 「それはたぶん、私が倒れて出血が甚だしく惨憺たる情景が顕れていたから、もはや蘇生する気遣いがないものと思ってとどめをやめさせたのではないかと想像する」
 としている 。確かに、出血多量の侍従長を見て、安藤は鈴木の助かる見込みの無いことを思った。が、本当に鈴木の命を救ったのは夫人・たかの活躍であった。たか夫人は安藤に対し、
 「それ丈けは止めて下さい」
 安藤は、結局夫人のこの哀願に躊躇し、脈があるにも関わらず、とどめを刺さなかったのであった 。しかし安藤自身の調書ではこのように襲撃のクライマックスをあっさりとしか記していないが、安藤の当番兵で、共に表門から突入した前島清伍長は当時の状況をもっと詳細に述べている。

  一番奥と思われる部屋にくると電燈がついていてそこに十五、六名の兵隊が半円形になって包囲する中に目指す鈴木侍従長が倒れていた。上半身から血が流れ出し畳のを赤く染めている。安藤大尉はその光景を見るや侍従長をすぐ寝室の床に移動させた。奥の間のすぐ手前が侍従長夫妻の寝室で、夫人が床の上に正座していた。
 安藤大尉は徐ろに夫人に向かって蹶起の理由を手短に説明した。
  「御賢明なる奥様故、何事もお判りのことと思いますが、閣下のお流しになった血が昭和維新の尊い原動力となり、明るい日本建設への犠牲になられたとお思い頂き、我等のこの挙をお許し下さるように」
  「では何か思想的に鈴木と相異でもあり、この手段になったのですか、鈴木が親しく陛下にお仕え奉っていたのをみてもその考えに間違いはなかったものと思いますか」
すると安藤大尉は静かに制して
  「いや、それは総てが後になればお判りになります」
沈黙が続いた。ややあって夫人は、
  「あなた様のお名前を」
  「歩兵第三連隊、歩兵大尉安藤輝三」
  「よくわかりました」
  「甚だ失礼ではありますが閣下の脈がまだあるようです、止めをさせて頂きます」
と言って大尉が軍刀を先を侍従長の喉に当てると、
  「ああそれだけはどうぞ・・・・・・」
と夫人が叫んだ。安藤大尉はしばらく考え、
  「ではそれ以上のことは致しません」
といいながら軍刀を納めた。全員は大尉の命令で鈴木侍従長に向かって捧ゲ銃の敬礼を行い官邸を引き上げた 。

 たか夫人の、危急の臨んでも物怖じしない姿勢が際立っている。武装した軍隊を目の当たりにしても動じないこの姿勢が、侍従長を救ったと言っていいだろう。もっとも、これはたか夫人だけのことではなく、同じく海軍大将で殺害された斎藤実内大臣の夫人も夫を庇おうとして負傷している。さすがに「武人の妻」として芯の強さを持っている。
かくて、安藤輝三大尉による、鈴木侍従長襲撃は終わった。死亡は確実とみられた鈴木侍従長は一命をとりとめ、前述したように後年総理大臣として再び歴史の部隊に姿を表すのである。午前五時三十分、部隊は侍従長官邸を引き上げた。

六.昭和維新成るか

 この日、鈴木侍従長の他に襲撃されたのは陸軍教育総監渡辺錠太郎(死亡)、内大臣斎藤実(死亡)、蔵相高橋是清(死亡)、牧野伸顕(軽傷)で、岡田啓介首相は襲撃されるも首相秘書官で義弟の松尾伝蔵海軍大佐を首相と勘違いした決起部隊のミスで間一髪で何を逃れている。暗殺だけでなく、陸軍省や参謀本部など陸軍の中枢、警視庁、首相官邸など日本の中枢そのものが決起部隊によって占領された。
 侍従長官邸を去った安藤の部隊は占領した陸軍省にやってきた。
 ここで安藤は集まってきた同志等から岡田首相、斎藤内府、高橋蔵相、渡辺教育総監らへの襲撃成功を聞かされた。
 「愈々昭和維新が達成するのか」
 空を仰いでそうつぶやいた安藤は、いかにも感無量、といった風だった
そして安藤はここで初めて「蹶起趣意書」を読み上げ、今回の行動の目的を全兵士に宣明したのである。

  蹶起趣意書
  謹んで惟(おもん)みるに我神州たる所以は、万世一系たる天皇陛下の御統率の下に、挙国一体生々化育を遂げ、遂に八紘一宇を完(まっと)ふするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇(ちょう)国(こく)神武建国より明治維新を経て益々体勢を整へ、今や方に万方に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。
  然るに傾来遂に不逞凶悪の徒簇(ぞく)出して私心我欲を恣にし、至存絶体の尊厳を藐(びょう)視し僭上之れ働き、万民の生々化育を阻碍して途端(ママ)の苦しみに呻吟せしめ、随つて外侮外患日を逐ふて激化す
  所謂元老重臣軍閥官僚政党らは此の国体破壊の元凶なり、倫敦(ロンドン)海軍条約並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭窃のを図りたる三月事件或は学匪大逆教団等利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にして、其の㴞(とう)天罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五の噴騰、相沢中佐の閃発となる、寔に故なきに非ず。
而も幾度か頸血を濺(そそぎ)来つて今尚些も懺悔反省なく、然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露支英米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神州を一擲破滅に堕らしむは火を睹(み)るよりも明らかなり。
  内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して稜威(みいつ)を遮り御維新を阻止し来たれる奸賊を芟除するに非ずんば皇謨を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ、年来御維新翼賛を誓ひ殉国捨身の奉公を期し来たりし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に上らんとして而も顧みて内の世状に優心転々禁ずる能はず。の君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さざれば、破滅沈淪を翻へすに由なし
  茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭し、以て神洲赤子の微衷を献ぜんとす

 皇祖皇宗の神霊冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを
    昭和十一年二月二十六日

陸軍歩兵大尉  野中四郎
他同志一同

 署名の野中四郎は同志中で最年長であったため、代表者として趣意書に名を記した。同趣意書はすでに先に陸相官邸に来ていた香田大尉、村中、磯部らが「陸軍大臣要望事項」と共に陸軍大臣川島義之に手渡し、自分たちの決起の目的と要望を伝えていた。「要望事項」は決起将校らが今度の一挙において何を目指したか、つまり具体的な「昭和維新」実現のための要求であった。

  陸軍大臣要望事項
  一、陸軍大臣は事態の収拾を急速に行うとともに、本事態を維新廻天の方向に導くこと。決行の趣旨を陸軍大臣を通じて天聴に達せしむること
  二、警備司令官、近衛、第一師団長及び憲兵司令官を招致し、その活動を統一して、皇軍相撃つことなからしむるよう急速に処置をとること。
  三、兵馬の大権を干犯したる宇垣朝鮮総督、小磯中将、建川中将の即時逮捕
  四、軍権を私したる中心人物、根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐の即時罷免。
  五、ソ国威圧のため荒木大将を関東軍司令官に任命すること。
  六、重要なる各地の同志将校を即時東京に招致し事態収拾に当たらしむること。
  七、前各項実行せられ事態の安定を見るまでは、蹶起部隊を警備隊編入、現拠点より絶対に移動せしめざること。
  八、次の者を陸相官邸に招致す。
  二十六日午前七時までに招致すべき者
   古荘陸軍次官、斎藤瀏少将、香椎警備司令官、矢野憲兵司令官代理、橋本近衛師団   長、堀第一師団長、小藤歩一連隊長、山口歩一中隊長、山下調査部長
  午前七時以降招致すべき者
   本庄、荒木、真崎各大将、今井清軍務局長、小畑敏四郎陸大校長、岡村寧次参謀本部第二部長、村上軍事課長、西村兵務課長、鈴木貞一大佐、満井佐吉中佐

しばらくすると自動車に乗った真崎も登庁した。磯部は近づいて真崎に話しかける。
 「閣下統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました 状況を御存知でありますか」
 と問えば
 「とう〱やつたか 御前達の心はヨヲッーわかつとる」
 と答える。磯部は続けて
 「どうぞ善處していただゞたい」
 と頼めば、真崎はこれにうなずいてきながら官邸内に入って行った 。真崎の態度は明らかに決起した将校らに好意的且つ協力的であると見ていいだろう。
安藤の部隊はその後三宅坂の三叉路に移動し、ここで天幕を張って夜営することになった。大まかに言って決起将校は陸軍上層部と折衝する組と部隊を率いて襲撃・占領を行う組に分かれるのだが、安藤は最初から最後まで部隊指揮に従事する。
 ――一方、宮城の天皇その人の下へも変事の報告が入ってきた。しかし変事に対処すべき最高責任者の岡田首相は死亡したと見なされ、側近として天皇を補佐すべき内大臣は死亡、鈴木侍従長の安否も不明という、心細い状況である。ここに、決起将校らとの三時間もの会見を終え、ようやく川島陸相が参内する。侍従武官長本庄大将に取り次ぎを頼み、すぐに拝謁となった。拝謁したはいいものの、黙って俯いているばかりの川島に対し、天皇は
 「叛徒の処置はどうするつもりか」
 と先に尋ねられた。川島はここで、言わぬでもよいことを口にしてしまう。
 「こういう大事件が起こったのも、現内閣の施政が民意にそわないものが多いからと思います。国体を明徴にし、国民生活を安定させ、国防の充実を図るような施策を強く実施する内閣を作らねばと存じます」
 これでは、まるでは決起将校らの取り次ぎである。天皇は
 「陸軍大臣はそういうことまで言わないでもよかろう。それより叛乱軍を速かに鎮圧する方法を講ずるのが先決要件ではないか」
 と、たしなめた 。軍の上層部が右往左往する中で、天皇は最も早い段階でその姿勢を明らかにした。川島陸相は、ただ恐懼して退下するしかなかった。
 この日、参内した軍の首脳は参謀次長杉山元中将、東京警備司令官司令官香椎浩平中将、軍事課長村上啓作大佐に加え、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎、阿部信行、西義一、植田謙吉、寺内寿一らの軍事参議官であった。そして、その場で軍事参議官会議が開かれ、決起部隊に対する「陸軍大臣告示」が発表されることになった。
 
陸軍大臣告示
 一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
 二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認務ム
 三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
 五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ッ

 「告示」を聞いた決起部隊が、自分たちの行動が認められたと思うのは当然である。安藤も遺書の中で「軍長老ガ軍ノ総意トシテ是認セルコトハ明ラカナリ」と述べている 。
 その思いを一層深くさせたのが東京警備司令部より発せられた「師戦警第二号」であった。

歩兵第一連隊長は朝来行動しある部下部隊及歩兵第三連隊、野重砲七の部隊を指揮し、概ね桜田門、〔日比谷〕公園西北側角、〔旧〕議事堂、虎ノ門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ぬる線内の警備に任じ、歩兵第三連隊長は其他の担任警備地区の警備に任ずべし。

 これは歩兵第一連隊長への命令であるが、要するに決起部隊を反乱軍とするのではなく、そのまま部下部隊として指揮せよ、との命令である。さらに、翌日には所属部隊から食糧の提供まであった。これらの措置について香椎司令官は手記の中で
 「途中予は、蹶起部隊を予の統帥系統内に入れ、一は以て、彼等の血を見て狂へる興奮を鎮め、又以て、命令に由り穏かに原隊に復帰せしむるに便せんとする考を、胸中に決したり。
 蓋し之れ最も妙たる謀略なりと信せし処である」
 つまり、決起部隊を押さえるための謀略であると述べているのだ。しかし正式な命令として反乱を起こした部隊を自らの指揮下に編入した香椎の措置は、帰って決起部隊に自信を与え、事態を長引かせる結果になった。さらに、香椎自身も事件終結後に「辱職罪」を疑われるはめになってしまう。
 翌二十七日、ついに戒厳令が敷かれた。香椎警備司令官は戒厳司令官となり、安藤らの部隊は麹町地区警備隊長となった小藤第一連隊長の指揮下に入り、その命令で現・国会議事堂(当時はまだ工事中)へと移動した。事態は決起将校らに有利に働いているように見え、安藤もそのように考えていた。が、事態は安藤らの与り知らぬところで静かに、しかに強い意志によって動き出そうとしていた。決起将校が敬けしてやまぬ、まさにそのために決起した天皇その人の強い意志によって。

 七.逆鱗―昭和天皇の怒り

 昭和天皇の侍従武官長、本庄繁大将は決起将校らにとって重要な人物の一人であった。彼の女婿、山口一太郎大尉は決起将校らにとっては準・同志とでも言うべき存在で、本庄武官長自信も彼等には同情的だった。決起将校にしてみれば、山口大尉―本庄武官長のラインを使えば邪魔されることなく天皇に意志を伝えることができるのである。
 事実、武官長は拝謁の際に彼等を庇うようなことを言上している。二十七日に拝謁した時、
 「彼等行動部隊ノ将校ノ行為ハ、陛下ノ軍隊ヲ、勝手ニ動カセシモノニシテ、統帥権ヲ犯スノ甚ダシキモノニシテ、固ヨリ、許ベカラザルモノナルトモ、其精神ニ至リテハ、君国ヲ思フニ出デタルモノニシテ、必ズシモ咎ムベキニアラズ」
 行動は悪いが、動機までも悪いのではありません、という。しかし、天皇はこれを容れなかった。
 「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」
 天皇は、彼等の精神だけでもという武官長の意見を断固として退けたのである。この段階で、天皇は最も強硬に決起を非難した一人であった。恐らくだが、「股肱の老臣」の筆頭として天皇の頭に浮かんだのは、鈴木侍従長ではなかったろうか。鈴木その人への信頼もあれば、天皇はたか夫人への思いも格別なものがあった。夫人は、天皇が幼少のころ、母親に代わってその養育を受け持った、いわば「育ての親」でもあったからである。
 さらに天皇は
 「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」
 とも述べ、決起部隊の行動が自分を苦しめる他何者でもないことを述べ、戒厳司令部の討伐が一向に進まないことにいらだち、とうとう
「朕自ラ近衛師団ヲ率イ、此ガ鎮定ニ当ラン」
と言い放つに至った 。もはや、天皇が決起部隊の要望に応える可能性はゼロ、であった。そしてこの天皇の意志は、軍を討伐へと向かわせる要因の一つともなったのである。

八.情勢の急転

二十七日午後六時頃、安藤の部隊は戒厳司令部より命令を受け、高級料亭「幸楽」へと移動した。日枝神社の側にあるこの料亭はすでにほとんどの従業員が非難しており、女将と少数の者だけが残っていた。幸楽へは決起の趣旨に賛同した様々な人が激励に訪れ、差し入れなども行われた。この夜は何事もなく、極めて平穏―決起部隊にとってだが―な時を過ごした。
一方、陸相官邸では真崎、阿部、西の三人の軍事参議官と決起将校首脳部の会談が行われた。ここで野中四郎大尉が
「事態の収拾を真崎将軍に御願ひ申します この事は全軍事参議官の全青年将校との一致として御上奏を御願ひ申したい」
 と述べた。しかし、真崎の答えは
「君等が左様云つてくれることは誠にうれしいが 今は君等が聯隊長の云ふことをきかねば 何の處置もできない」
どうも、要領の得ない回答に終わっている。このような調子で結局会談はさして成果の上がらぬまま終わったのだが、後に磯部は
「この会見は極めて重大な意義をもつていたのに 全くとりとめのないものに終つた事は 維新派敗退の大きな原因になつた、吾人はシッツカリと正義派参議官に喰ひついて幕僚を折伏し 重臣 元老に対抗して 戦況の発展を策すべきであつた 真崎、阿部、西、川島、荒木にダニの如くに喰ひついて 脅迫、扇動、如何なる手段をとつてもいゝから 之と離れねばよかつたのだ」
と後悔している。事実、この時すでに事態は討伐へと向かっていた。
というのは、陸軍の長老(荒木、真崎など)とは別に、参謀本部、特に石原莞爾や武藤章などは最初から決起部隊には強硬姿勢であり、杉山参謀次長も荒木、真崎らとは違った意見を持っていた。そして、決起部隊にとって致命的な「奉勅命令」が下達されるに至るのである。

第六章 安藤部隊の最後

一.奉勅命令下達さる

「奉勅命令」とは天皇が直接下す命令のことで、二十七日の午前八時には杉山次長が拝謁し、天皇の允裁を得ていた。下達されたのは、翌二十八日午前五時過ぎのことである。

臨変参命第三号
戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ
  奉勅
参謀総長 載仁親王

 これにより、決起部隊が戒厳司令部の命令に従わず、もし占拠した場所を撤退しないのであれば、逆賊ということが決定する。逆賊となれば、これはもはや「皇軍相撃」ではないから討伐されることになる。討伐については荒木、香椎らはやはり反対を唱えており、二十八日に戒厳司令部で行われた会談で説得を続けるように杉山次長に述べている。特に香椎などは決起将校の精神について
 「全く昭和維新の精神の横溢なり。深くとがむべき限りにあらず」
 とまで述べて擁護している 。これは、昭和天皇に叱責された本庄武官長の意見とほぼ一緒である。これでは、香椎の回想にある「血を流さないで事を納めるための謀略」としていた「決起部隊の戒厳司令部編入」の言い訳が非常に怪しくなってくる。
 香椎の慎重論に対し、杉山次長は激しく反対した。
 「全然不同意なり。二日間にわたり所属長官から懇切に諭示し、軍の長老もまた身を屈して説得せるにかかわらず、ついにこれに聴従するところなし。もはやこれ以上は軍紀維持上よりするも許し難し。また、陛下に対し奉りこの機に及んで昭和維新断行の勅語を賜うべくお願いするは恐懼に堪えず。統帥部としては断じて不同意なり。奉勅命令に示されたる通り兵力にて討伐せよ」
 香椎は数分間沈黙の後、
 「決心変更、討伐を断行せん」
 とついに決意した 。

 二.「兵に告ぐ」

 一方、決起将校の側といえば、こちらも帰順か徹底抗戦かで揉めていた。安藤らの所属師団である堀師団長の尽力によって討伐は何とか引き延ばされたが、すでに奉勅命令の内容は決起将校に伝わっている。討伐の実行は翌二十九日の午前九時の決定されている。
 抗戦か、和平か―。決起将校等の決心は、徹底抗戦だった。彼等を包囲する軍もまた、決起部隊が撤退しないのを見て、いよいよ戦いの覚悟を固めた。
 だが事態は意外な方向に急転する。二十九日に飛行機からビラが撒かれたのだが、これが非常な効果を発揮した。

 下士官兵ニ告グ
 一 今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
 二 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
 三 オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ

二月二九日                              戒厳司令部

 同時に、これを紙に書いてアドバルーンを上げ、さらにはスピーカーからは中村アナウンサーによる「兵に告ぐ」が繰り返し放送された。これは決起将校ではなく下士官兵に直接呼びかける作戦で、さすがの首魁・磯部ですら
 「もうこれで駄目かな」
 と感じたほど効果を現した(それでも磯部は帰順する部隊を引き留めにかかったが) 。
 兵士の意気阻喪は明らかだった。まず首相官邸の中橋基明中尉が帰順し、陸相官邸の清原少尉も続いた。あとは、雪崩を打ったように続々と帰順する。磯部の説得も、結局は通じなかった。帰順した将校等も、兵士のことを思えばこそ、これ以上彼等に迷惑はかけられなかったのである。ただ一人、安藤輝三大尉を除いて。

三.最後の別れ

 安藤の部隊は、料亭幸楽を離れて山王ホテルに移っていた。ここで安藤は香田清貞大尉と共同してホテルで戦う予定だった。ここに、磯部があらわれた。磯部は一兵たりとも欠けることなく中隊長のもとに死ぬ覚悟を固めた安藤中隊を目の当たりにし、何とかこれを助けたいと説得に当たった。
 「オイ安藤 兵士を帰さう、貴様はコレ程の立派な部下をもつているのだ 騎虎の勢い 一戦せずば止まる事が出来まいけれども 兵を帰してやらふ」
 ―立派な部下。確かに、安藤の部下は立派であった。下士官兵を除いてはいわば「騙されて」連れてこられた兵士たちからすれば、安藤は自分たちを「道連れ」にした上官であるし、その後長く「反乱部隊の兵士」と後ろ指指される切っ掛けを作った人物である。でありながらも、事件を回想した兵士たちの一文には安藤輝三を批判する言葉は一言もない。
 「私は安藤大尉に仕えたことを誇りに思っている。何故なら軍人として厳格な反面、温情味を備えた性格は誰からも尊敬され慕われた立派な人物だったからである。だから第六中隊の団結は固く何事にも積極的だった」(安藤の当番兵、前島清伍長)
 「部下に対しては細心をもって温く我々の面倒をみるなど実に人間味のあふれた心の暖い上官であった」(酒井光司二等兵)
 「今思うと、安藤大尉は実にいい中隊長であった。あのように部下を思い民百姓に心をくばった将校も希れで、まことに軍人の鑑といえよう」(増田喬一等兵)
 これは、安藤を追懐する部下達の言葉のごく一例に過ぎない。「勇将の下に弱卒なし」との言葉が示す通り、安藤輝三だからこそ、こうした部下達に慕われ続けたのだった。
 磯部の説得もあり、安藤はとうとう決意した。兵士等を整列させ、最後の言葉をかけた。
 「俺たちは最後まで、よく陛下のために頑張った。お前たちが連隊に帰るとういろいろなことをいわれるだろうが、皆の行動は正しかったのだから心配するな。
 連隊に帰っても命拾いしたなどという考えを示さないように、女々しい心を出して物笑いになるな。
 満州に行ったらしっかりやってくれ。では皆で中隊歌を歌おう」
 兵士等が中隊歌を歌い始めると、安藤は静かに隊列の後方に歩いていった。そして―。
 「ダーン!」
 拳銃を引き抜いた安藤が、銃口をあご下に当てて引き金を引いた。
 かくて、決起将校最後の一人、安藤輝三は自ら「反乱」の幕を引いた。
 そのあまりにも劇的な幕引きを見た磯部は、安藤に対して賛嘆の言葉を惜しまない。
 〈拙文、安藤部隊の最後を如実に記することが出来ぬのを遺憾とする。安藤は実にえらい奴だ。あれだけ下士官兵からなつかれると云ふことは、術策や芝居では出来ない 彼の偉大な人格が知らしめたのだ〉
 磯部は終始決起を主導し、思想的にも最も過激な人物の一人であった。獄中手記の中では自分たちと敵対したとは言え、昭和天皇に対してすら
 「何と云ふ御失政でありませう」
 と呪詛の言葉を投げかけるほど、異常な自負と思想の持ち主である 。。その磯部でも、安藤とその部隊の「鉄の団結」にはただ賛嘆の言葉しか出なかった。
 しかし安藤の意に反して傷は致命傷とならず、結局他の将校と共に裁判にかけられることになる。結果は、銃殺刑。死刑執行の間際に発せられた言葉が、また実に安藤らしい。
 「秩父宮殿下万歳!」
 彼が最後に絶叫したのは、兄のように慕った、あの懐かしい中隊長の名だったのである。
 最後に、安藤に襲撃されながらも生き残った鈴木貫太郎の安藤評を紹介したい。 
「まことに立派な惜しいといふよりも、むしろ可愛い青年将校であつた。間違つた思想の犠牲になつたのは気の毒千万に思ふのであります」
 鈴木襲撃後に鈴木家の女中に「閣下を殺した以上は自分も自決する」と述べて去って行った安藤への、これは最大の讃辞であり哀悼の言葉であろう。

〈完〉

参考文献一覧(本来は脚注をつけていたのですが、Wordを貼ると反映されないため、参考文献一覧を付しておきます)               

入江相政『いくたびの春――宮廷五十年』(TBSブリタニカ 一九八一年)                                大谷敬二郎『二・二六事件』(図書出版社 一九七三年)        奥田鑛一郎『二・二六の礎 安藤輝三』(芙蓉書房 一九八五年)    岡田貞寛編『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社 一九七七年)
池田清「『ロンドン軍縮条約日記』解説」(『岡田啓介回顧録』所収)
末松太平『私の昭和史』(みすず書房 一九八九年)
テレビ東京編『証言・私の昭和史1』(文春文庫 一九八九年)
埼玉県編『新編 埼玉県史 別冊 二・二六事件と郷土兵』(埼玉県 一九八一年)
大蔵栄一『二・二六事件への挽歌』(読売新聞社 一九七一年)
石橋恒喜『昭和の反乱 上巻』(高木書房 一九六九年)
高橋正衛『二・二六事件 増補改訂版』(中公新書 二〇〇一年)
河野司編『二・二六事件――獄中手記・遺書』(河出書房新社 一九七二年)
高宮太平『軍国太平記』(中公文庫 二〇一〇年)
武藤章『比島から巣鴨へ――日本軍の歩んだ道と一軍人の運命』(中公文庫 二〇〇八年)
杉森久英『参謀・辻政信』(河出文庫 一九八五年)
新井勲『日本を震撼させた四日間』(文藝春秋新社 一九四九年)
鈴木一編『鈴木貫太郎自伝』(時事通信社 一九六八年)
池田俊彦編『二・二六事件裁判記録~蹶起将校公判廷~』(原書房 一九九八年)

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