たいした読破数じゃないが(9月に読んだ本のことなど)

1日に須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)。
2日に『たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選』(行方昭夫訳、岩波文庫)。
5日に須賀敦子『ヴェネツィアの宿』(文春文庫)。
8日に高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(岩波現代文庫)。
10日にアントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(須賀敦子訳、白水Uブックス)。
14日に須賀敦子『ミラノ 霧の風景』(白水Uブックス)。
16日に須賀敦子『トリエステの坂道』(新潮文庫)。
18日に須賀敦子『地図のない道』(新潮文庫)。
23日に『小泉八雲東大講義録 日本文学の未来のために』(ラフカディオ・ハーン、角川文庫)。
28日に辻邦生『地中海幻想の旅から』(中公文庫)。
29日に河島英昭『イタリアをめぐる旅想』(平凡社ライブラリー)。

今月は頭の働きが粘りを欠いていて,あまりまじめな本は読めなかった。そんなことを書くと須賀敦子の愛好家に怒られそうではあるが,彼女の文章はとてもよいものなので,こちらでは何かガンバル必要はないのである。私たちが読者として頑張らなければならないと思われるのは,周知のように,論文だとか,そういう学術的な読みの体験の中において読まれなければならないところの「文章」なのである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。

上の最後の一文だけは,ふっと思い出して,荷風の『雨瀟瀟』を引用してみた。その次の一文は,こうである。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑なデアルの文体を排棄しようと思いながら多年の陋習遂に改むるによしなく空しく紅葉一葉の如き文才なきを歎じている次第であるノデアル。

下旬に西荻で,何人かで円卓を囲んで集まり,『たけくらべ』を読むという会があった。私は松浦理英子による現代語訳を持って行った(というか,その日駅前通りを歩いていたらたまたま古本屋で見つけて買った)。そして会の始まりまで現代語訳のほうを読んでいたのだけれど,それは下のような調子なのである。

回ってみれば大門の見返り柳までの道程はとても長いけれど,お歯ぐろ溝に燈火のうつる廓三階の騒ぎも手に取るように聞こえ,明け暮れなしの人力車の往来ははかり知れない繁盛を思わせて,大音寺前と名前は仏臭いけれど,それはそれは陽気な町と住んでいる人は言ったもの,三島神社の角を曲がってからは家らしい家もなく,〔……〕(『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』,河出文庫,2004年)

ページをめくってどこまで読んでも句点がない。原文のほうも引いてみると,

廻れば大門の見返り柳いと長けれど,お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く,明けくれなしの車の往来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は仏くさけれど,さりとは陽気の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大廈もなく,〔……〕(『にごりえ・たけくらべ』樋口一葉,岩波文庫,2015年)

こうして並べてみると,現代語訳は原文のむづかしいところを今風の語彙や表現に置き換えたもので,根本的な「文体」は何も変わらないことが分かる。ということは,私も含めた今日の多くの読者にとって,現代語訳のほうも原文と同様か,ひょっとしたら原文以上に読みにくいものになっている。よく「紅葉一葉の如き文才なきを歎じ」ることができた荷風の如き教養なきを歎じるしかないのである。荷風のみならず,一葉を尊敬する文学者は今日でも多くて,たとえば上に挙げた高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』でも,

わたしは長いあいだ一葉のことを,周りで新しい散文が生まれつつあったなかで,それをまったく知らないかのように,古めかしい美文に立て籠もり,失われていく時代と共に生きようとした,あるいはそういう時代に殉じようとした,後ろ向きの精神の持ち主ではないかと考えてきました。
しかし,最近になってわたしは,実は,まったく逆ではないかと考えるようになったのです。
一葉は,周囲で興隆しつつあった言文一致体によるリアリズムの文章に基づく小説というものを,「リアル」ではない,と感じたのではないでしょうか。(前掲高橋,p.25-26)

と書いてある。ここで「リアル」と呼ばれているものが何なのか,私には今のところよくわからない。とりあえずハーンの講義録を読んでみた。それから少しずつ古典へと溯って行こうと思って,円朝の『真景累ヶ淵』を買ってきた。一葉を理解するには,彼女を二葉亭や漱石や藤村といった中に並べてレアキャラ扱いしているのはちょっと考えものだろう。つまり,近代文学の集合に含まれる文学者の多くは,同時に江戸文学の集合にも含まれるわけだから(彼ら自身が読んできたものという点では)江戸文学を勉強することで,一葉の中で血肉になって『たけくらべ』のような形で外化されてきたあるものを理解できるかも知れないし,新しい時代の文学のためにそれらと決別しなければならなかった文学者の理解もできるかも知れない。そこで厄介なのは江戸文学の多層性ということになるわけだけど……(時間のあるときに簡単なnoteの記事にでもまとめてみようか。)

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1995年生れ,栃木県出身。文学部哲学科卒業。神学と日本文学を行ったり来たり。たまに創作も載せています。

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