「向き合い」の本質は「死」を常に意識するということ。

自分が何のために生きているのかも忘れて気持ちいいことに浸っていると気持ちいいのに自己嫌悪に陥るのは何故なのでしょうね。

そういう生活をしているとふいに死にたくなったりするわけですが。きっと不意にやってくる死にたくなる感情は「死」から目を背けることに対するより戻しなのかもしれないなって。

いつ死ぬか分からない状況ならそういうことを思うことはあまりないのかもしれない。或いは身の回りに存在するものが当然にあるわけでないと強く自覚出来ていたのなら。

だから人生と向き合うことの本質は「死」と向き合うこと、それを常に意識して生きることなのだと。

でもそれは簡単なことではなくて。だって周りを見渡せば自分よりもすごい人なんていくらでもいるわけで。

頑張ったって意味ないって強く思わされる環境に時代に生きていて。

それだと言うのにスゴイ人はもうその時点でスゴイのに日々さらに努力を積み重ねていて。

「それでも本気を出せたら自分も」なんて思って此の方、そう出来たことは瞬間でさえ一度として訪れることはありませんでした。

まあそんな半端モノの話はどうだっていいのですが。SNSを筆頭に容易に周囲と比べることが出来てしまう時代。この流れはもっと強まりそうですよね、AIの発達も凄まじいので。今後人類が抗うことの出来ない絶対美を目にする日もそう遠くないと感じています。そして近頃そんな価値観に抗うかのように、マイノリティーを尊重するムーブメントが起きていることもおそらく偶然ではないのでしょう。

少し話が逸れてしまいましたが。死ぬ気で頑張るというのは文字通り死が意識に入るほど努力するということなのだと思います。結局のところ、死を常に意識できていない自分みたいなのはだから弱いのかもしれません。

自分に○○があるからなんて言う生易しい拠り所は本気になるには反って邪魔なものでしかない。そんな思考は最もらしくもあるのですが、それは確定的にうまくいくマインドとも限らなくてリスクが伴います。


そのリスクを背負うのが本気ということでは勿論あるわけですが、そうやって退路を断って本気になれるかはまた別の話です。やるしかない、という状況・精神状態によって取り組む、向き合うといったことが果たして本気であるのかは人によるからです。

本気になれたことがない人間にとってそれは特に難しいものでもありました。だから、変に自分を追い込むという方法は自分にはあってなくて。流れを待つのもまた向き合うことの一つであることを受け入れることが出来れば自然と良い機会がやってくることもあるはずです。

ただ勿論それにはいたずらに日々が過ぎてしまうということもあるわけで、そのためについ心が逸ってしまうというものです。だからといって何もせず自堕落に待つのもあまり良くはない、でもだからといって焦っていけないという絶妙なバランスに生かされているのだと痛感せずにはいられません。

一歩ずつ自分のペースで日々を積み重ねるという穏やかな心持ちで生きたいとそう思う今日この頃です。


それでは、また。




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