小説「壁」


 壁?目の前に見えるのは壁なのか?いや決して壁なんかではない。地面に等間隔に打ち込まれた杭と、それらを繋ぐ縄。あるのはただそれだけだ。僕は先ほどから立て札をじっと見つめている。立て札にはこう書かれている。

「壁の向こうに行ってはいけない。壁の向こうに行っても、どうせ追っ手にすぐ連れ戻される」


 壁とは目の前のこの張られた縄のことなのだろうか?杭は低く、縄は簡単に跨ぐことができる。これが壁なのだとしたら、壁の向こうに行くのは簡単だ。しかし壁を越えても追っ手にすぐ連れ戻されてしまうという。

 杭と縄を越えた先にはただ荒野が広がっている。荒野を越えていった先には何かがあるのかもしれない。行ってみなければわからない。

 いっそのこと、壁がもっと強固な鉄の壁だったらよかった。それだけでなく銃で武装した兵士が見回りをしているというのならもっとよかった。それだったらそもそも壁の向こうに行こうなどという気は起こさなかったはずだ。しかし壁がこんな貧相な杭と縄では、どうしてもその向こう側に行ってみたいという気になってしまう。

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 知人がいて、その人は数年前に壁の向こうへ行ってみたことがあった。リュックサックに食べ物や寝袋を詰め込み、夜中に壁を越えたのだった。ただ縄を跨ぐ。それだけで脱出は完了した。後はひたすら真っ暗な荒野を歩くだけであった。行っても行っても何もなかった。朝日が昇るころ、ついに疲れ果てて彼は倒れこみ、その場で眠った。彼は頭に衝撃を感じて目を覚ました。起き上がると、目の前に棒を持った屈強な男が立っていた。どうやらその男に棒で殴られたらしい。男はその後も彼を棒で殴り続けた。彼はぼろぼろになった。頭のあちこちにたんこぶが出来、鼻からも口からも血が出ていた。こいつが「追っ手」なのだろうか?などということは一切考えられなかったと彼は言っていた。ただ目の前の痛みと、次にくる打撃の恐怖に耐えるだけで精一杯で、その他のことは何も考えられなかったらしい。男は彼を一通り殴り終えると今度はありとあらゆる種類の罵詈雑言を浴びせかけた。彼はそのことについてはあまり語りたがらなかった。お前は誰にも愛されないし、何によっても救われない。そもそもお前は捨て子で、愛されずに育った。だからそんな腐った性根の人間に育ったのだ。死すらお前にとっては救いではなく、永遠に魂のままこの世界を放浪して苦しみ続ける運命にある。とかなんとかそういうようなことを延々と彼は言われ続けたらしい。男はその後彼に向かって目一杯唾をはきかけ、そして最後に小便をひっかけて帰っていった。彼には涙を流す気力すら残されていなかった。起き上がるどころか、這って動くことすらできなかった。彼は何も感じることができないままただその場所でどんよりと曇った空を見上げていた。やがて彼は目を瞑りそのまま眠ってしまった。


 何かの足音が近づいてくることに気がつき、彼は目を覚ました。それは馬車だった。馬車は彼のそばで止まり、中から人が出てきた。それは女性だった。どこにでもいるようなごく普通の女性で、黒髪を後ろに束ね、ワンピースを着ていた。彼女は僕のそばに座り込んだ。そして僕の頭を持ち上げ、自らの膝の上にのせた。彼女は彼の傷とか痣を優しく撫で、「痛かった?」と聞いた。彼は何も答えることができなかった。


 彼女は自らのワンピースの裾で彼の顔の汚れとか血を拭いながらこう囁きかけた。

「誰にも愛されないなんて、そんなことがあるはずがないんだよ」


 彼らはしばらくそうしていた。その後彼は起き上がることができるようになった。痛みがひいたわけではなかった。ただ、動き出す気力が戻っただけのことだった。しかしとにかく彼はこのままここで横たわっているわけにはいかない、と思ったらしい。丁度その時彼女は立ち上がり、彼に向かって手を差し伸べてこう言った。

「町へ帰ろう、一緒に」

 彼はその手を握った。


 その後彼らは同じ馬車に乗って町まで帰ってきた。行きと同じように帰りも簡単に壁は越えることができた。ただ縄を跨いだだけだ。彼女はその後彼を病院に連れていってくれた。別れ際に彼女が住んでいた場所の住所を記した紙をくれた。「傷が治ったら、会いに来て」と彼女は言った。「必ず行くよ」と彼は言った。


 一月後、傷が全て治った彼は紙に書かれていた住所を訪れた。そこは空き家で誰も住んでいなかった。近所の人に尋ねてみたりもしたが、かなり昔からそこは空き家のままだったらしい。結局彼はその場を離れ、元の生活に戻った。壁のことについてはもう2度と考えなくなってしまった。この話にしても、長い間頼み込んでようやく聞かせてもらったものなのだ。

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 この話は謎に満ちている。男が「追っ手」だったのか、女が「追っ手」だったのか、あるいは両方そうだったのか…。


 ただわかっているのは他にも壁を越えた人はいるが、全員結局は町へ帰ってきてしまったということだ。荒野で皆誰かに会い、それをきっかけとして町へ帰ってくることになった。そういうことらしい。


 僕は迷ってる。この壁を越えて町の外に出るか、それとも永遠に町の中で生きていくかということを。

 僕は…

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