2012年12月23日の雑文


 昨日は眠ることができなかった。ベッドの上であてもなく寝返りを打ち続けていると、さまざまな考えや想いが頭の中をかけめぐっていった。そのほとんどは私の気分を落ち込ませる性質のものであった。たまらずベッドから起きて机に向かい、ノートを開いて自分の胸の中にたまっている思いを文章や絵にして吐き出そうとした。でもどうしても駄目だった。文章だろうが絵だろうが意味のあるものは何一つとして書くことも描くことも出来なかった。


 ありていにいって私は苦しかった。今までにないくらい苦悩した。吹雪から花を守るための薦はなく、寂寞とした風景を彩る雁もいない。その中でひたすら冷酷な雪女の吐く息にだまって絶えていた。いや、あまり詩的に苦悩を表現するのはやめよう。それは、結局先人たちが編み出した現実をろ過する色眼鏡をもてあそんでいるにすぎない。

 自分の文体などというものは今だ身につかない。そんなものがいつか自分に身につくのかどうかもわからない。ただあてもなく書きつづけることしか僕にはできない。


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 目の前を飛び回る蝿のわずらわしさに絶望して泣くことは滑稽なことだと人はいうだろう。泣いている暇があるなら手をふり蝿を追い払ってしまった方がずっと手っ取り早いと皆考えるからだ。しかし僕はその絶望を馬鹿にすることができない。小さくても大きくても苦悩は苦悩だ。その苦しみにものさしをあてて、あるいはそれを秤にのせて長さや重さを量るということはできればしたくはない。なるほどたとえば裁判をして、苦しみの価値を評価して具体的な損害賠償額を算定する必要にかられた時は仕方ないだろう。しかし今は判決のときではない。今必要なのは、いたわられることなのだ。問題は「誰が」いたわられるべき人なのかということだが。

 言いたいのは、雪女の誘惑にまけ、簡単に物事を凍らせてしまうなということだ。彼女はなんだって凍らせてることができる。花も木も、鳥も人も思い出も、燃え盛る炎ですら彼女は完璧に凍らせてしまうことができる。彼女がいるかぎり、彼女のそばにおいておくかぎりその氷のオブジェは永遠だ。しかしひとたび太陽のもとにさらせば、それらのオブジェはとけくずれてしまい、元の姿とはにてもにつかないぐずぐずの泥沼と化してしまうのだ。あとに残るのは絶望と、袖をぬらすのに十分な涙だけだ。

 いずれにしても、人の苦しみにメスをいれて解体してしまうのはやめよう。どうしてもそれをしたいなら、あなたはあなたの領分をしっかりと示すべきだ。弁護士なら「私は誰かからあなたのために損害賠償をかちとることしかできない。」医者なら「私は足りないものを何かで埋めるか、余分なものをメスで切り取ることしかできない。」と、自分の職務領域をしっかりと語るべきだ。苦しみにはあくまで本人が本人のやり方で向き合うべきだ。


 とはいったもののそれは建前だ。実際に人は一人で魔物に立ち向かうことができるほど強くはない。剣や盾を作ってくれる鍛冶屋が、魔法を教えてくれる賢者が少なくとも必要だ。あるいは助けにいくべき姫も、それをさらう竜も「必要なもの」なのかもしれない。人はどうしたって人をたよる。自らの体を自ら切り開き、時に喜んで臓物をみせびらかす。そしてあれこれ品評してもらい、「自分もまたある種の方向性の中に位置づけられる存在だったのだ」というお墨付きをえて、にこにことした安心した表情で日常へと帰っていくのだ。「自分は大切な何かをもしかしたら失ってしまったのかもしれない」などということは思いもしないで。


 全ては詩的な表現だ。詩的な表現でしか語ることのできないことはあるのだ。詩的な表現を封じられてしまったら、私はもう「どこそこの建物の、何番の窓口へ行ってこれこれと言いなさい」とか、「なになにという肩書きをもつものを探して、なになにをなんとかして手に入れなさい」などという手続きに関することしかいえなくなってしまう。そんなロボットにはなりたくない。だから、どうか人々よ僕に死神をつかわして、僕の中で暮らす詩人を連れていこうとさせるのはやめていただきたい!

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 優しくされるにはどうすればいいか?そんなのは簡単なことさ。あなたは今すぐ図書館にいって爆弾の作り方を覚えればいいのさ。拳銃の作り方でも毒薬の作り方でもいい。あれこれ口出しを受けず、かつ定期的にパンとワインを届けてもらうためにはあなたは武力を持つしかない。数式を覚え、いつでも材料を手に届く場所においておきなさい。それらの道具は羽となり、きっとあなたを雲よりもずっと高い場所。輝く星月の近くまで連れて行くことでしょう。


 ただ知るだけのことは本当の罪には問われない。しかし幻の罪にとわれるかもしれない。あなたは幻のウラマーたちが集う天幕の中につれていかれ、幻の裁判を受けるかもしれない。そこで幻の罰をうけ、幻の牢獄で幻の罪をあがなえと命令されるかもしれない。しかしそれらは結局幻にすぎない。照りつける太陽のもと、懲罰的労働をいくらこなしたとしても、夕暮れ、昼とはうってかわって寒くなった砂漠で焚き火にあたりながら食べたナツメヤシがいくらおいしかったとしても、それらは何もかもが幻なのだ。そう、あなたが部屋の片隅で世に対する恨みをはいている限りは。

 しかしひとたびその恨みを、つむいで糸としてその糸から布を織り、布から空飛ぶ絨毯を作り出し、その絨毯に乗って都市の上空までやってきて、そこから爆弾を落としたら、あなたは本当の罪に問われる。警察はあなたの手首に手錠をかけ、マスコミはフラッシュをたいてあなたを東京の拘置所へ連れて行く。別にニューヨークでも、テヘランでもいい。要するにあなたは本当の手続きを受けることになる。本当の罪をあがなうための、本当の裁判の手続きに。

 仮にそこで死刑になったとしても、あなたは本当の罪をあがなうことはできるかもしれないが、幻の罪をあがなったことにはならない。それはあなたがこぼした露で、衣にできたしみなのだ。あなたの罪を、あなたが浄化しなかったのならば、その染みは、さて一体誰がぬけばいいのでしょうか?敬虔な主婦か?ぐうたらなギャンブラーか?いずれにしても染みは残る。現実の罪は消えても、幻想の罪は残る。ひとたび幻想の罪を作り出したあなたは、幻想の罰を受ける責任がある。

 世の中には、幻想をもたず、ひたすらに現実の罪を作り、罰を受けるものもいる。それはもはや仕方がない。だからこそ警察も裁判所もあるのだから。


 あなたはあなたの罪に向き合いなさい。それが詩的責任をとるということだ。

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