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2014年2月8日の日記


 何か特別なことが起きなかった日に無理やり書いた日記でも、後から読み返すとなかなかに面白いものである。確かにそれを他人が読んでも特に面白いものだとは思えないだろう。しかし、その日を経験したほかならぬ自分自身ならば、その日の日記をきっかけとしてその日のことを追体験する面白さを味わうことができるのである。あの日に見たテレビ、読んだ小説、考えたくだらないこと、解いたパズル、抜いたエロ漫画、街の風景、どこかから流れてきたにおい、聴こえてくる話し声、…時という究極の調味料にかかってしまうどんな平凡で特徴のない食材でも一流の料理に進化することが可能となるのである。

 後に読み返す時に非常に楽しい気持ちを覚えることができるということを知ってはいる。しかしそれでも平凡な日常を文章化するのはひどく辛いことである。少なくとも私にとってはそうである。なぜそうなのかというとやはり疲れるからである。疲労はするが快感もある。その点では労働に似ている。しかし労働よりも文章を書くという行為は芸術に近い。私は文章を書いていると、どうしても文章の体裁、美というものを気にしてしまう。美について考える場合、人は魂の疲労を感じる。だから私は文章を書くたびに体の奥底の魂をもすりへらしてしまうのである。なるほど、いい文章を書くことができたときには魂からの喜びを手に入れることができる。しかし、今の私の実力ではなかなか満足のいく文章というものを書くことができない。出来上がった愚にもつかない文章を目の前にして私は苦悩するのである。かくのごとく文章作成は私にとって辛いことなのである。

 文章についてのこだわりが大きすぎるのだろう。もう少し気楽になればいいと思うのだが、なかなかそううまく自分の精神をコントロールすることはできない。

 …しかし作った時にはろくでもないもののように思えた文章を何ヶ月もたった後に読み返してみてなかなか面白いという感想を抱くということは非常によくある出来事である。前述のごとくこれは時という魔法がなしとげる詐術の一種なのだが、それでも快感は快感である。だから納得いかなくてもとにかく文章を書くよう私は私にいつもハッパをかけているのだが、なかなか思うように心も体も指先も動いてはくれないのである。


 しかし今はそれなりに指先がよく動いてくれている。この調子に乗って私は今日の日記を書いてしまおうと思っている。

 今日は1日中雪が降っていて、都内では25センチも積雪したそうだ。多摩川ではスノボーをする輩すら現れたとのことである。全く異常気象もいいとこである。


 今日の食事は、朝はピザパン、昼はアジフライとハムカツ定食、そして夜は豚汁鍋であった。鍋には豚汁だから根菜が入っていた。そのせいで食材の煮えるリズムが微妙に狂ってしまったが、汁に全体的にとろみがついて非常に美味な鍋となった。特に最後の雑炊の味が格別であった。

 今日は寒かったからか、それとも今週はそれなりに活動的だったせいか、1日中眠り続けていた。午前にも午後にも昼寝をしてしまった。午後の昼寝の方でかなりしっかりとした夢を見た。


 舞台は学校だった。私は水のみ場へ水を飲みに行った。すると4組の扉が開いて一人の男が近づいてきた。それは盗賊だった。私と彼は随分久しぶりに会ったということになっていた(夢の中で)。彼の顔は雪のように白く、私は思わずまじまじと彼の顔を見つめてしまった。

 セイヤという名前の男も出てきて、私は彼とも何か言葉を交わした。そうだ、私は彼に何かギャグを1つ言った。確か、教室を遠くから見ても何組かわからないのだから看板をつけたほうがいいのではないか?とかそういうことを言った気がする。これがなんでギャグになるのかわからないが、夢の中で私はこれを確かにギャグのつもりで発言したのである。言うまでもなくセイヤは苦笑いをしていた。

…しっかりとした夢を見たはずだったのだが、それ以外には思い出せない。


 まあこれだけ書けば日記としては十分ではなかろうか。
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