2016年4月22日の日記


 何日か日記を書いていなかった気がする。その分を書くついでにちょっと1週間のことについて振り返ってみる。

 
 月曜日は何をしていただろうか。さっぱり思い出すことが出来ない。しかし月曜のことはすでに日記に書かれていた。この日はランニングに行っていたようである。ああそうだ。ランニングの途中にぱらぱらと雨が降ってきたのであった。そういう日だったのだ。

 翌日の火曜日。私は午後から図書館へ行った。近くのファミリーマートでジャンプを立ち読みしたのであった。ハンターハンター目当てであったが、筋を全く忘れてしまっていたので何が何だかわからなかった。

 図書館では黄表紙「親敵討腹鞁」(実に荒唐無稽。これぞ黄表紙という感じ)、「フィレンツェ貴族からの招待状」、それから題名はよく思い出せないがやはりフィレンツェ関係の本を読んだ。その後、日本法制史と中坊氏による整理回収機構についての本を借りて帰途についた。

 ちなみに昼食はチャーハンか何かで、夜は焼きそばであった。

 

 となると翌日水曜日は終日家にいたのかもしれない。支倉常長の本を1日かけて読み終えてしまったのではなかっただろうか。


 支倉の本についてもちょっと何か書こうと思ったのである。私が読んだのは田中英道氏のものであったが、氏によれば支倉の遣欧使節はあまり歴史家たちの評価が高くなかったのだという。支倉について本を書いている五野井隆文氏や大泉光一氏などは支倉について否定的な見方をしているのだという。田中氏によればそれは彼らが主に使節に否定的な立場にあったイエズス会側の資料を重点的に参照しているところに原因があるのだという。


 伊達政宗はスペイン王やローマ法王に宛てた手紙を支倉に持たせていたが、手紙の内容はヨーロッパとの通商を求めるものであった。イエズス会はこの要求を断り、できるだけ早く使節を追い返すことを求める手紙を法王にあてて何度も送っている。大泉氏などはそういった手紙の内容などを元に、使節はヨーロッパでむしろ冷遇されていて、外交的な成果は何一つとしてあげられなかった、というようなことを主張しているが、それは間違っているというのが田中氏の主張である。田中氏の主張は支倉たちはヨーロッパで大歓迎されたし、法王はイエズス会の要求を突っぱねて、できるだけ支倉たちに便宜をはかろうとしてくれていた…というものである。歓迎されていたか、いなかったか、というのは結局主観の問題である。これをすぱっと割り切るのは結構難しいことであるように私は思う。

 アマチの「遣使録」などからは厚い歓迎を受けたことを窺える。しかし時代は17世紀初頭のヨーロッパである。表面上は慇懃でも、細かい部分ではやはりずさんな扱いを受けていたのではないだろうか、と私などは推測してしまう。

 大泉氏はおそらく支倉使節団は「悲劇の」それだったと言いたいのであろう。一生懸命交渉を行って、それなりの成果を持ち帰ってきたところすでに日本ではキリシタン狩りが始まっていた…という事実に注目すればやはり彼らは悲劇の使節団であった。司教区の設置の許可は得ていたが、通商のは駄目だったようである。


 しかし、彼らは実際に日本人がヨーロッパに行くことによって多くの記録を残すことによって、後世の人間に非常に勇気を与えてくれた。少なくとも使節団が無駄だったということはないと思える。ただまあ両氏は学者であるから論争になるのも仕方のないことであろう。その論争から新しい何かが生まれてくることもあると思うので、どんどんやるべきである。


 それにしても支倉が自ら記した19巻にもおよぶ旅行記が散逸してしまったというのは実に惜しむべきことである。どこかの蔵からこれがひょっこりと姿を現したりなどしたら空前絶後の支倉ブームが起きることは間違いない。


 ソテロという男は何者だったのか。どういう思いでキリシタン弾圧真っ只中の日本にやってきて、そして処刑されたのか。


 ちなみに支倉たちはローマからの帰り、途中でフィレンツェに寄っている。その時のことについて書かれた史料はあまり存在しない。支倉の旅行記にはその時のことも記されていたと思われる。考えれば考えるほど散逸させてしまったのが悔やまれる。


 昼食はみそラーメン。夜は何か…魚だったと思う。納豆も食べたと思う。

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