2017年1月13日の日記


 昨日は図書館に行ってきた。そして筑摩ノンフィクション全集の、唐伯虎の収録されている巻と、バウンティ号の反乱の収録されている巻を借りてきた。昨日の昼食はおじや。夜は麻婆豆腐だった。


今日は午前中にランニングに出かけた。昼食は寿司だったが、千代田のではなかった。千代田はなくなってしまったらしい。魚屋の寿司とのことだったが、千代田のより量は少なかったが質はよかった。食後昼寝をする。起きた後ちょっとパソコンをする。

 夕食はシチューだった。ほどほどの量を食べた。


 夜オブローモフを読む。下巻の200ページぐらいまで一気に読んでしまう。ゴンチャロフという人が書く小説の、どの部分が面白く、どの部分が退屈なのかということがおぼろげながらわかってきたような気がする。


 平凡物語もそうであったが、恋愛関係の描写は総じて駄目である。そこでは登場人物の心理がしっかり描かれるが、そこに自ずと作者自身の恋愛観がにじみ出てしまう。しかしそれが退屈きわまりないものなので、シーン全体が実に味気ないものになってしまっている。ポエジーのない恋愛ほど苦痛なものはない。


 オブローモフという人間自身は非常によく描けている。オブローモフという余計者を表現するために、くたびれたシャツ、長椅子、開かれてほこりがかぶったままの本のページなどといったものが実に写実的に描写される。そういう風に描かれたオブローモフという人間は実に立体的に浮かび上がってくるのであるが、オリガやドイツ人の親友などはどうも人形のようにしか思えないのである。親友の方は悪人共にひどい目にあわされているオブローモフを助け出す役目を負わされた一種のヒーローだからそれでもいいのだがオリガは全く駄目である。いっそオリガの心理は一切描写しないという手法を採用した方がよかった。女の本心はわからないまま、結局オブローモフは見捨てられる。そして親友からオリガと結婚したのだということを伝えられる…。そのシーンで読者も初めてそのことを知るのである。そちらの方が小説の全体的な印象がぐっとひきしまっていたように思うのであるがどうだろうか。


しかし親友と悪人たちの使い方はなかなかよかったように感じた。悪人たちに財産をかすめとられていくシーンは久しぶりに小説にどきどきはらはらさせられてしまった。悪人たちが実に憎らしいからこそ、親友が色々実務を行うシーンがはえるのである。また、オブローモフがあの悪人にビンタをくらわすシーンが爽快なものになるのである。

 とはいってもまだ最後まで読んではいない。あとちょっとである。

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