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小説 下宿あだち(全文)


下宿あだちと書いた小さなメモを持ってポンタは佇んでいる、

お城の内堀沿いの通りに、間口の狭い長屋が隙間無く連なっている、その一軒の前にポンタは立っていた、

住所はここで良いはずなんだけど、と思いながら古びた郵便受けを見る、安達何某と三名書かれた下にボールペンで細く下宿あだちと書いてあった、


四つある引戸のどれを開けて良いかわからないから一番左を開けてみるとガラガラと音を立てて開いた、鍵は掛かっていない、
中は奥に向かって薄暗い土間の廊下があり、廊下沿いに障子で仕切られた小上がりがある、小上がりの中は見えないがおそらく大家の部屋だろう、

すみませーん、と声を掛けるが人の気配の無い小上がりからは返事が無い、
こんにちはーと少し声を張ると、はーい、と暗い廊下の奥の方から返事がした、

廊下の右奥からヒョイと顔を覗かせパタパタとサンダルでこちらに小走りでやって来たのは、おばあさんと呼ぶには少し若い白い割烹着のおばさんだった、

あら本田君ね、お母さんから聞いてますよ、じゃこっちに来て、おばさんは土間の廊下の奥へとポンタを手招きした、

下宿先が見つかったから、と昨夜母から電話があった、明日ご挨拶に行きなさいと言う、

そんな突然に、とポンタは思ったが、すぐ引越せ、と母は促した、


ポンタはこの春から高校生になった、志望校に合格したと同時に父の東京転勤が決まった、

父の転勤の度に転校を繰り返してきたポンタはもう転校は真平ごめんだった、そこで親戚の叔母の家にお世話になり高校に通う事にした、

高校生活が始り二週間も経たないのに叔母の家を出ろと突然母から連絡があったのだ、

叔母は良くしてくれたし、迷惑をかけた覚えもない、叔母の家の生活にもやっと慣れた頃の事だった、

暗い土間の廊下をおばさんに追いて奥に進む、間口が狭い割にかなりの奥行きがある、所謂うなぎの寝床と言われる作りの古びた木造の長屋だ、

大家の母屋部分を抜けると賄いを作る台所の先のスペースに食卓テーブルと椅子が四脚、テーブルの横には大きなお櫃、湯飲みとお茶碗が重ねてあった、小さな棚の上には箸箱が三つ並んでいた、

ここが食堂、朝晩はここで食べて、昼と日曜の夜は賄いが無い、自分の箸と箸箱は買って来て、とおばさんは説明した、

食堂の仕切りを挟んで二層式の洗濯機が置いてある、

自分で洗濯出来るよね、と聞かれたポンタは洗濯などした事無かったがうんと頷いた、

明らかに増築したのであろう不自然に立て付けられた二階への階段の下を潜り、暗い廊下の終点の少し手前の奥まった所に小上がりの襖がある、

おばさんはその襖を手で差し、ここが本田君の部屋、と言って襖を開けた、真っ暗な部屋にサンダルを脱いで上がるとおばさんは手を伸ばし紐をカチッと引く、丸い蛍光灯の一部が青白く光りパッパパッと電気が付いた、

擦り切れた黄色い畳の真四角な四畳半の部屋には窓が二つある、壁側の窓は隣家の壁の目の前だ、もう一つの窓からは食堂から二階に上がる階段が磨りガラスの向こうに透けて見える、その窓の下に据付の古い木製の学習机がある以外何も無い部屋だ、

ちょっと暗い部屋だけど、今はここしか空きがないの、来年上の先輩が出たら上が空くから、おばさんは少し申し訳無さそうに言うと、帰る時に声掛けて、とおばさんは部屋を出て台所に戻って行った、

ポンタは低い天井の部屋をぐるりと見渡し蛍光灯の紐を二度引き電気を消してみた、まだ日がある時間なのに真っ暗だった、

階段が透ける磨りガラスから気持ちばかりの食堂の明かりが入るが日の光は一切入らない、湿気が多くかび臭い部屋、下宿あだち、ここでポンタは高校生活を送る事になった。


ダンボール二箱の荷物を自転車の前カゴと後ろの荷台に積んだ、布団は後で叔母が車で届けてくれるという、

必要な物を買いなさい、と叔母は一万円くれた、今までの礼を丁寧に言いポンタは下宿あだちに向かった。

真っ暗な部屋の電気を点け教科書類を部屋に据え付けの机の本棚に並べる、

ポンタは唯一の財産カセットテープレコーダーとダビングしてもらった好きな曲の入ったテープをガチャガチャと箱から出し、その中の一本を入れ再生ボタンを押した、

テープレコーダーからポンタの好きなRCの曲が流れ始め部屋中に響いた、隣りの部屋には三年生の先輩が住んでいるらしいが物音一つしない、隣りの先輩に気を使いポンタはテープレコーダーのボリュームを2に下げた、

叔母の家の部屋にも貼っていた好きなアイドルのポスターを広げ、どこに貼ろうかと思案した末、学習机の横の壁に張る事にした、黄色い畳に寝転がるとアイドルが見下ろし微笑み掛けている様に見えた、ポンタは一人ニタニタした、

テーブルが必要だな、と叔母に貰った一万円を握りしめ近所のホームセンターに向かった、一番安い脚が折り畳み式の小さなローテーブルを選んだ、

ファスナーで開閉出来る紺色のビニール製のクローゼットが目に入る、値札を見ると3,980円、隣の黄緑のチェック柄のは2,980円だった、ポンタは散々迷った挙句、色はそのうち慣れるだろうと黄緑で妥協した、

自転車でローテーブルと組立式のクローゼットを抱えて帰り、安っぽいローテーブルの脚を広げ畳に置いた、胡座をかいてテーブルの上に両手を置いてみる、悪くない、

細い金属のパイプを繋ぎ合わせ黄緑のチェック柄のビニールを被せたら簡単にクローゼットが出来上がった、移動させようと持ち上げると想像以上に軽い、すると下のパイプが一本スポリと抜けた、パイプを挿し直し持ち上げると今度は別のパイプが抜けた、簡単に抜けると踏んだポンタは畳の上をズルズル引き摺りながら部屋の角に設置した、

クローゼットのファスナーを開けて中に学生服を掛けファスナーを閉じる、固いファスナーを上げる時またパイプが抜けそうになった、

安っぽい黄緑のチェック柄が畳の部屋では浮いた感じがした、やはり紺にしとけば良かったかな、と少し後悔した、

夕方叔母が布団を届けてくれた、ポンタの部屋を見て、あら良いじゃない、と言った、

日が当たらなくて真っ暗でもこの部屋はオレだけの小さな城、カビ臭いのも素敵なもんさ、ポンタは一人満足気に呟いた、


ポンタが叔母の家を突然出なければならなくなった理由、それはどうやら母が叔母に対し気を悪くした事が原因のようだ、

数年前に子供達が独立した叔母夫妻は、子育てからようやく解放され、二人静かに暮らしていた所にポンタの面倒を見る事になった、

その事を叔母がぼやいていたと言う話を口伝てに聞いた母は急遽ポンタを叔母の家から出して一人暮らしさせる事に決めたらしい、

叔母は特段ポンタに冷たくする素振りも無くむしろ優しく接してくれていた、ポンタが来年学校の寮に入る迄の一年間は面倒を見ると決めていた所に、突然出ると言い出した母の事を叔母は良くは思わなかっただろう、

寮は定員で入れなかったので母は東京から電話で学校周辺の下宿先を片っ端から当たったが全て埋まっていて、唯一空いていたのがこの日の当たらない部屋、そして部屋を見る事も無く即決してしまった、と言うのが今回の顛末だった、

この出来事がきっかけとなり母と叔母の確執はその後しばらく続く事となった、親の転勤で散々振り回されて来たのに、結局また大人の事情に振り回される事となったポンタだった。

料理の匂いが漂って来た、下宿のおばさんが夕食の賄いを作り始めたようだ、一時間程するとおばさんは、ご飯でーす、と大きな声を掛けた、

上の部屋がドカドカと騒々しくなり階段を降りる足音がした、ポンタは窓に透ける階段の影に目を遣る、

階段を降りる足に続いて胴体、手、頭と人影が見えた、上の部屋の三年生の先輩だろう、

すると影はポンタの部屋の窓の所で止まり窓をコンコンと叩いた、手と頭が磨りガラスに透けて見える、

ポンタは驚いて窓を開けると、ギョロリと大きな目、短く刈られた頭、ずんぐりした鼻、厚めの唇の顔がヌッと窓から入って来た、

よう新人、飯出来たから箸持って出て来な、教えてやるから、先輩は人懐こい笑顔でポンタに声掛けた、

ホームセンターで買ってきた箸と箸箱を持って食堂に行くと先輩が、よろしくオレは三年の吉田、ここに座りな、と自分の隣の席を指差した、

四つの椅子の前にそれぞれおかずの入った皿が一つずつに、お茶碗、味噌汁椀、湯呑みが伏せて置いてあり、蝿よけネットが被せてある、吉田先輩は自分と隣のポンタの蝿よけネットを取ると傘の様に畳んで食卓の隅に置いた、

ポンタは吉田先輩に会釈し、一年のほんだたけしです、と自己紹介して隣に座った、先輩は保温機能のある大きなお櫃からご飯を茶碗山盛りに装い、そして隣の黄銅色の手持ち鍋から味噌汁を注ぎ、ポットから湯呑みに番茶を入れた、

ポンタも見様見真似でご飯、味噌汁、番茶を入れる、

吉田先輩は棚の上に三つ並んでいる一番右の箸箱を取り中から箸を取り出すと、番茶の入った湯呑に箸を入れてカチャカチャとかき混ぜた、番茶で箸を洗っているのか、
ポンタは買ってきたばかりの自分の箸と箸箱を見つめ、洗った方がいいな、と思い水道で洗剤を付けて洗った、

吉田先輩は気にすることもなく先に食べ始めた、ポンタが洗った箸を持って隣に座ると、またこれだよ、とおかずを箸で指して言う、

目玉焼きの様に見えるおかずは、卵を油で揚げた揚げ卵とでも言うべきか、上にケチャップを掛けた揚げ卵が二つに生野菜が添えてあった、

揚げ卵は毎週出る、ご飯はおかわり自由だがおかずは少ない、と吉田先輩が教えてくれた、

揚げ卵で山盛りご飯を二杯食べた後、先輩は三杯目を装った、ポンタも負けじとおかわりしたが三杯目のおかずがない、

ふりかけ買っとけ、と先輩は自分用ののりたまの入った瓶をポンタに渡してくれた、

ご飯三杯をペロリと平らげた吉田先輩は食べ終わった箸をまた番茶の湯呑に入れカチャカチャと洗いそのまま箸箱に仕舞い箸箱を一番右に置いた、そして箸を洗った番茶をグイと飲み干した、

几帳面なポンタは番茶で箸を洗う事は真似できなかった、水道で箸を綺麗に洗い自分の箸箱を一番左端に置いた、

食べ終わると吉田先輩は二階の自分の部屋に上り、ラーメン丼を持ってすぐに降りてきてお櫃のごはんを丼に装い始めた、そして丼てんこ盛りにご飯を装うとラップをかけた、

その様子をポンタがキョトンと見ていると、これは夜食用、お前も丼あった方がいいぞ、と言って二階の自分の部屋に持って上がった、

夕食後、早速ポンタは丼とふりかけを買いに走った。


下宿あだちは一階と二階にそれぞれ二部屋ずつあり四人の住人がいる、

四人は同じ高校の男子生徒、ポンタの上の部屋に三年の吉田先輩、斜め上の部屋には二年生、一階のポンタの隣の部屋には三年生が住んでいる、ポンタの部屋以外はすべて日当たりの良い部屋だった、

初日に声を掛けてくれた吉田先輩はポンタより背も高くがっしりとした体型で、ギョロっとした目は一見怖い印象を与えるが、とても面倒見がよく優しい人、一年生からこの下宿に住んでいるベテランだ、

ポンタの部屋の電気が点いているといつも吉田先輩は階段からポンタの部屋の窓をコンコンと叩き窓からいろいろ話しかけてくる、

先輩は階段に座り込み、今日の出来事とか他愛もない話を冗談も交えながら一時間近く話し込むこともある、

この部屋ホント真っ暗だよなオレは運良く一年から二階だったけど、と吉田先輩は言う、

どうやら、ポンタの部屋の住人は毎年入れ替わるらしい、中には一年持たないのもいたとのことだった。


ポンタの通う高校は人口十三万人ほどの小さな県庁所在地にある、

県内有数の進学校で同県のあらゆる中学のトップの生徒達が集まって来る、そのため山間部や離島の生徒達は皆寮か学校周辺の下宿に暮らしていた、

ポンタは高校の校区内に住んでいた為、並の成績でもこの高校に入る事ができた、

一学年十クラスのうち三クラスはハイクラスと呼ばれる成績の良いクラス、ポンタはそれ以外の凡クラスだった、

吉田先輩は山間部の小さな村の中学出身、成績も良くもちろんハイクラス、高校は文武両道をモットーとして掲げ勉強と部活動の両立を推奨していた、先輩は体も大きく運動が苦手といった感じではなかったが帰宅部だった、

この学校には勉強するために来た、勉強して国立大学に入る、といつも堂々と語っていた、

皆が行くから流されて高校に進学したポンタにこれと言った目的や夢など無かった、強いて言えばサッカーをがんばりたいと思っている程度、

山奥の小さな村から一人来た吉田先輩には揺るぎない信念と明確な目標があった。


木造の古い天守閣が現存する城山を囲う内堀沿いに武家屋敷の白壁が続く、盆栽を大きくしたようなクネクネ曲がった枝の黒松が植えられた歩道を歩き、城山の隣の高台の坂を登った所にポンタの高校はあった、

下宿あだちから学校まで徒歩10分程で徒歩通学の圏内だったが、ポンタは自転車通学の申請をした、入部する予定のサッカー部のグランドが学校から少し離れた場所にあった為だ、

学校への坂道は結構キツく、自転車は押して登る、ポンタは毎日愛車の黄色いスポーツサイクルを押して学校に行った、

無機質な白い四階建ての鉄筋コンクリートの校舎が二つ並び、いびつな形の狭い校庭がある、校庭には大きな二本松が生えていて、この松は双松と呼ばれ学校の象徴となっていた、

昇降口を入って目の前にある掲示板には先日行われた校内模試の結果が張り出されている、吉田先輩が模試の中で校内模試が一番難しいと言っていた、

現在の実力を知るためのテストであると担任に言われたポンタは特段勉強することなく模試に望んだ、すべての科目がとても難しくほとんど解けなかった、

後日返却されたテストは惨憺たる結果だった、得意なはずの理科でさえ50点も取れず、数学に至っては20点にも満たなかった、

張り出されている校内模試の結果は上位50名は名前と点数が書いてある、それ以下は点数と順位のみが記されている、

ポンタ模試の順位は一年生420人中412番目だった、中学では中の上の成績で自分は馬鹿では無いと思っていたポンタの自信はズタズタに引き裂かれた、

三年生の結果にふと目をやると上位15番目に吉田先輩の名前があった。


高校の授業は正に詰め込みと呼ばれるそのものだった、英語の構文150という古めかしい分厚い表紙の本を丸暗記しろと先生は言う、どの科目も暗記力が物を言う勉強にポンタは全く興味が湧かず成績は低迷した、

職員室の外壁には大学の合格実績ボードがあり東大を筆頭に合格者の名札がずらりと誇らしげに掲げられている、

進学校は良い大学に合格することが大命題である事を全く知らずに入学したポンタには違和感しかなかった、

小学校からサッカーを続けているポンタは部活はサッカー部と決めていた、
勉強に意欲のないポンタにとって部活動が唯一の希望だった、来たれサッカー部!と書かれたポスターを見て期待に胸膨らまし、小中同じチームだった俊介とサッカー部の体験入部に行く事にした、

俊介はサッカーが上手く足も早い、小中とキャプテンを任されていたほどリーダーシップも持ち合わせている、その上成績もよく高校のクラスはハイクラスだった、

自転車で10分ほどの広々した水田地帯の中に野球部のグランドと並んでサッカー部のグランドがあった、知った顔の一年生達も数人体験入部に来ていた、ポンタの緊張は一気に和らいだ、

三年生のキャプテンが部活紹介をした後ポンタ達一年生は練習に加わった、一通り練習を終え最後はゲーム、中学の部活を引退して以来しばらくボールに触れていなかったポンタは先輩達に混ざって久々のサッカーを思い切り楽しんだ、

県立の進学校ながらサッカー部は何度か全国大会に出場経験がある強豪だ、同じ市内の私立の強豪校と県大会ではいつも決勝で当たり敗れることが多いが、勉強が大変な中でも練習は真剣そのものだった、

真摯に部活動に取り組む先輩達の姿を目の当たりにしポンタはこのサッカー部で全国出場を目指そう、と決意した。


食卓にはポンタの席と斜向いの席におかずが残っている、夕食が用意されると同時に食べる帰宅部の吉田先輩とポンタの隣の部屋の三年の先輩のは既に片付けられていた。

ポンタは体験入部を終え、すっかり日も落ちた真っ暗なあぜ道を俊介と自転車で並走しながら、今日のおかずは何だろな、と楽しみにしていた、

おかずに被せてあるハエ避けネットを取ると焼きそばが置いてある、ん?焼きそば、と戸惑っていると二階の吉田先輩の隣の二年生の先輩が帰ってきた、陸上部に入っている先輩の帰りはポンタと同じ位遅い、

芸能人のマッチの様な髪型に短ランを着こなしペタンコの鞄を持っている、毎朝登校前に洗面所の鏡の前で暫く髪型を整えている、見た目は少しイカツイ人、噂では美人の彼女もいるらしい、

やきそばを見ながら呆然としているポンタをチラリと見てマッチ先輩は、また焼きそばか、と言いながら斜向いに座るとお櫃からご飯を茶碗に装った、ポンタも真似てご飯を装い、自分の箸箱を取り先輩の行動を見ていた、

焼きそばをおかずに普通にご飯を食べ始めた先輩に、焼きそばがおかずですか、とポンタは訊ねた、

先輩は箸の手を止め顔を上げ、ハハハおかしいだろ、と笑いながら、この下宿では焼きそばはおかずなんだよ、すぐ慣れるさ、と言った、

お腹と背中がくっつきそうな程に腹の減っていたポンタは、ソース味の焼きそばは案外おかずになるな、と思いながら山盛りご飯を三杯食べた、

マッチ先輩も同じように三杯食べると吉田先輩のように部屋からマイ丼を持ってきて夜食用にご飯を山盛り装った、

ポンタも自分のラーメン丼に夜食用ご飯を装っているとマッチ先輩が、おばさんに見つかると嫌味言われるから気を付けろよ、とニヤリ笑った、

運動部に所属しながら成績も常に上位、クールでカッコいいマッチ先輩、最初は少し怖かったが話すと気さくな良い人だった。


ポンタと俊介はサッカー部に正式に入部した、体験入部の時はお客様扱いでゲームにも参加出来たが、正式入部以降はゲームに参加するどころかボールすら中々触らせてもらえなくなった、

グランドに着くなり、まず一年は山走りに行け、と監督の野田先生は言う、山とは城山のこと、

ポンタ達一年生は列になり田んぼの畦道を城山に向かって走る、自転車で十分程の距離だが走るとかなりの距離だ、

城山に着くとそのまま天守閣に登る階段をダッシュで十往復し、城山をぐるりと囲む内堀沿いの道を五周しグランドに帰る、総距離およそ十キロ、時間にして一時間半程かかった、グランドに戻るともう足はパンパンだった、

戻る頃には先輩たちは既に練習を終えてクールダウンしている、それからやっとポンタ達一年生のボールを使った練習が始まるのだ、

山走りは毎日続いた、日に日にサボる輩が出てきて、城山までは走るが誰も見ていないのを良い事に階段ダッシュは座って見物、その後のお堀周りの走りはせず、グランドに戻る時だけ一緒に走る、

この走り一体いつまでやらされるのか、いい加減げんなりしていたポンタと俊介だったが、サボる奴らが次々増えてゆく中でも真面目に山走りをこなしていた、

もう一人ポンタ達と一緒に真面目に走る奴がいた、チビでずんぐりむっくり、ドラえもんの様なやたらに大きな頭、そして短い足、毛虫のように真っ黒な図太い眉は眉間で繋がっている、ギョロリと大きなツリ目にぺちゃんこの鼻と大きな口、今までオデコの広さでは負け知らずのポンタでさえ敵わない程の大きなオデコの持ち主だ、一緒に走るうちに仲良くなった彼のあだ名はゴン、

山走りが一ヶ月ほど続いたある日の練習試合でのこと、一年生は出られないだろうと思っていたポンタは途中15分だけ出番を与えられた、その日一年生で試合に出られたのはポンタと俊介そしてゴン、山走りを一度もサボらず真面目に走っていた三人だった、

試合後監督は山走りをマネージャーに監視させていた事を打ち明けた、きたねーよー、とサボり組の一年生達が口走ったが監督は、サボっているお前らの方が汚いだろ、と一蹴した、


部活を終えて下宿あだちに戻ると食卓にはポンタのおかずだけが残されていた、サッカー部の練習は終わりが遅く、最近では一人で最後に夕食を食べることが多くなった、

今日のおかずは皿に盛られて冷たくなったカレー、冷えて固まっているカレーをご飯にかけて食べる、保温効果があるはずのお櫃のご飯もほとんど冷めていた、

毎日の山走りで究極に腹が減るポンタのご飯の量はここ最近一段と増していた、お櫃のご飯を次々と装いカレーを色付け程度にごく少量乗せて夢中で食べていたらお櫃のご飯が空になってしまった、

ポンタは下宿のおばさんにご飯が無くなった事を告げると、最近ご飯がやたら減るわねーもう、と言いながら渋々大家の家族の分であろう追加のご飯を持ってきてお櫃に入れてくれた、

追加のご飯もぺろりと平らげたポンタはまだ足りなかったが、これ以上ご飯のお代わりをおばさんに言えなかった、夜食用のご飯を丼にキープする事も今日は出来ない、

お風呂に入り、壁のアイドルのポスターを眺めて、あー腹減ったなー、と寝転んでいると吉田先輩が窓をコンコンと叩いた、

窓からよう、と顔を出した先輩とのよもやま話の中で、今夜ご飯が無くなった話をすると、しょーがねーなー、と言って二階から自分の夜食用に取ってあった山盛りの丼ご飯を持ってきて、ほれ、とポンタに差し出した、

先輩の夜食が無くなるから、とポンタは遠慮したが、オレは大丈夫仕送りのインスタントラーメンがあるから、と言い先輩はニヤリと笑った。


山走りが監視されていた事が発覚して以降サボる輩はいなくなったが、サボっていた連中は真面目に走っていた三人に全くついて行く事が出来なかった、

ポンタ、俊介そしてゴンの三人は知らぬ間に走力が付いていた、監督の野田先生曰く、走るスポーツのサッカーで一番大切なのは走力、高校からは45分ハーフの試合もあり試合で最後まで走り切る走力を身に付けさせる為に山走りをさせた、との事だった、

三人は他の一年生達を置き去りにして山走りからいつも一番最初に帰って来る、早く戻ると先輩達のゲームに参加出来る、高いレベルの上級生の中でのプレーにも慣れ、練習試合の出場時間も次第に増える、という良い流れに乗っていた、

ポンタ、俊介、ゴンは一年生の中で一歩抜け出し最高のスタートダッシュを切る事が出来た、


頭でっかちで超が付くほど短足のゴンは話す内容もなんだか風変わりで、少し変な奴だなとポンタは思っていたが、実はゴン、とんでもない男だった、

入山勉、いりやまつとむ、ゴンの名前が一番上に載っている、昇降口に張り出されている校内模試の結果を何気無く見たポンタは驚いた、何とゴンは学年一位の成績だったのだ、

俊介とゴンは勉強の出来るハイクラスにいる、俊介曰くゴンはハイクラスの中でも常にナンバーワンらしい、

ゴンを見た目で判断していたポンタだったが、それからゴンを見る目は尊敬の眼差しへと変わった。


下宿あだちにはテレビが無い、部屋にテレビを置く事も禁止されていた、テレビのある下宿もあったが、下宿あだちは勉強しに来る学生向けなので、敢えて置いてなかった、

テレビが大好きなポンタにとってテレビを見られない事は何より辛かった、来年は絶対テレビのある下宿に引っ越してやろうと思っていた、

夕食を終えお風呂に入ると夜九時迄は自由時間、住人達は毎晩それぞれ思い思いに好きな事をして過ごす、

テレビは無いが、自由時間の下宿あだちは結構騒々しい、ほぼ毎晩二階からギターの音が聞こえて来る、吉田先輩がフォークギターを弾きながら大声で歌うのだ、

先輩はギターがとても上手い、長渕剛の大ファンで長渕剛ヒット曲全集という歌本の曲すべて弾くことができる、

ギター上手ですね、と言うと吉田先輩は嬉しそうに、聞かせてやるから部屋に来い、と言う、ポンタは初めて吉田先輩の部屋に入った、

四畳半の部屋に丸い卓袱台があるだけの質素な部屋、勉強机の周りには赤本やら参考書やらが堆く積まれ、机の上は沢山のノートと消しゴムカスが散らばっていた、

壁には長渕剛とポンタの好みでないアイドルのポスター、勉強机の前には、目指せ国立、と書いた紙と目標の大学名が書かれた紙が貼られている、いかにも勉強してます感の満ちた部屋だった、

どの曲でもいいぞ、と言う先輩にポンタは全集の中から逆流と言う曲を選んだ、毎晩のように二階から聞こえてくる曲だ、これはいい曲だよな、と言って先輩は弾き始めた、

ロック好きなポンタはフォークソングの長渕剛はそれほど好きではなかったが、先輩が弾く逆流はギターがロックっぽくて好きだった、

逆流のギターを教えて欲しい、と言うと、先輩は丁寧に教えてくれた、コード程度は弾けるポンタは毎晩先輩の部屋に通って練習し、逆流は一ヶ月ほどで弾けるようになった、

自由時間は夜九時まで、それを過ぎると下宿あだちは急に静かになる、皆毎晩夜更けまで勉強をするのだ、

サッカー部の練習でヘトヘトのポンタは早々に夜食の丼ご飯にふりかけを掛けて喰らうとすぐに夢の中という毎日を送っていた。


ポンタの一日の生活費は500円、この中には昼食代も含まれている、

三限の休み時間になると校売にパンが届く、腹を空かせた高校生達は我先にとパンを買いに集まりあっという間に売り切れてしまう、一番人気はマヨパン50円、マヨネーズの掛かったロールパンを焼いただけのシンプルなパンだが、安くて美味しく大変人気があった、

三限終了のチャイムと共にポンタは校売へと走りマヨパン50円を一個買うと、齧りながらその足で学食に向かい250円の日替わり定食の食券を買う、定食は数量限定で昼休みには売切れてしまう、

定食のご飯では足りない食べ盛りの高校生達は追加でラーメンやカレーを食べていたが、お金の無いポンタは100円の半ラーメンすら買えなかった、

マヨパン50円と定食250円使った残りの200円は部活前のパン代として取っておかなければならない、

グランドに行く途中にあるスーパーに立ち寄り毎日パンを買って食べる、パンを食べずにサッカー部のキツイ練習をこなす事は不可能なのだ、

ポンタがいつも買うパンは決まっていた、ビッグロシアという大きなコッペパンの上に砂糖が掛かっているだけのパン、150円という安さに加えとにかく一番デカイ、質より量のポンタにとってビッグロシアは正に救世主、それに50円の牛乳を買うとピタリ500円、

ポンタ以外の部員達は皆実家通いで昼は大きな弁当を作ってもらっていた、その上部活前のおにぎりまで持って来ていた、

毎日ビッグロシアばかり食べているポンタの事を不憫に思ったサッカー部の仲間達はパンを奢ってくれたりポンタの為にと多めに握って貰ったおにぎりをくれた、

下宿の粗末な食事に少ない生活費だったが、ポンタは優しい仲間達に助けられハードなサッカー部を続ける事が出来ていた。


僕が ここを 出て行く訳はー

誰もが 僕の居場所を 知ってたからー

ポンタは自分の部屋で寝転びなから今夜も上から聞こえて来る吉田先輩の逆流に合わせて口ずさんでいると、上のマッチ先輩の部屋からもギターの音がして来た、

マッチ先輩はエレキギターを持っている、虎目がキレイなグレコのレスポール、ポンタは一度弾かせてもらった事がある、

アンプに繋いでボリュームを目一杯上げて雨上がりの夜空にをジャカジャカ弾いてたら、ちょっとうるさいわよー、とおばさんに注意された、

下宿あだちにはもう一人住人がいる、ポンタの隣の部屋の三年の先輩、騒々しい二階とは対照的に隣の部屋からは自由時間でも物音一つしない、部屋で一体何をしてるのか不気味な程いつも静かだった、

この部屋に住んでかなり経つのに、ポンタは隣の先輩に会う事はほとんど無く、挨拶程度しか話した事が無かった、

帰宅部の吉田先輩は隣の先輩と毎日一緒に夕食を食べているらしいが、部活で帰りの遅いポンタが帰って来る頃には夕食も風呂もとっくに済ませ、隣の先輩は部屋に引っ込んだきり出て来る事は無かった、会うとしたら朝食の時ぐらいだった、

下宿あだちの朝食は毎朝同じ、食パン二枚とゆで卵一つ、食パンをトースターで焼いていちごジャムとマーガリンを付けて食べる、

隣の先輩が向かいの席に座って先に食べていたのでポンタは、おはようございます、と挨拶したら、あ、お、おはよ、と先輩はうらなり瓢箪みたいな青白い顔で俯き加減で返事すると、何も喋らずそそくさと食べ終えて部屋に引っ込んでしまった、

ポンタがパンを齧っていると、よう、と二階から吉田先輩が降りて来た、隣の先輩おとなしいですね、と言うと、でも悪い奴じゃないで、と吉田先輩は言う、恥ずかしがり屋で引っ込み思案だが優しい奴だ、との事だった、

ま慣れたらそのうち話す様になるやろ、と吉田先輩はジャムをたっぷり塗ったパンを口いっぱいに頬張りながら言った。


ポンタの前の席に、野津日奈子、という子が座っていた、

日奈子は明るく快活な子だ、スラリとした高身長、目鼻立ちの整ったその顔は、かわいいと言うより美人の部類に入るのだろう、美しさを鼻にかける事もなく気さくな性格から同性異性問わず人気者で周りにいつも人の絶える事は無かった、

ポンタは前の席の日奈子に、なあサッカー部のマネージャーやらへん、と冗談半分で言ったら、いいよ私サッカー大好きだから、とあっさりオーケーが出てポンタは面食らった、

サッカー部にとって歴代初のマネージャーとなった日奈子は、性格も良くとても気が利く子だった、

練習で飲む水のボトルを用意する、試合で使ったユニフォームや靴下を洗濯をする、雑用も嫌な顔ひとつせずせっせとこなした、

男臭いサッカー部の中にパッと咲いた一輪の花のように日奈子は美しく目立った、試合でチームが得点した時に飛び上がって喜ぶ姿は無邪気で何とも可愛いらしく皆が癒された、でかしたぞお前あんな可愛い良い子を連れてきて、とポンタは先輩達にいつも褒め称えられた、

遠征試合の時、弁当の無いポンタがパンを食べている姿を見て世話好きの日奈子は、今度弁当作って来てあげる、と言うがさすがにそれはとポンタは遠慮した、

次の遠征で日奈子は弁当を持って来て、お母さんが作ったけどね、とピンクの可愛らしい弁当袋を渡しニコリと笑った、その笑顔のあまりの眩しさにポンタは目が眩んだ、何だよポンタだけずるいぞ、と先輩達は冷やかされた、

マネージャーになって欲しいと言った手前、ポンタ、俊介、ゴンの三人はいつも日奈子と一緒に来て一緒に帰った、

先輩達の中にはポンタと日奈子は付き合ってるのか、と疑う者もいた、ポンタはまんざらでもなかったが日奈子がポンタに恋愛感情らしきものを抱いている感は微塵もなかった。


ポンタはほとんど話をした事が無い隣の部屋の先輩と向かい合って座り話す事も無いので黙って朝食を食べていた、すると食べられないからあげる、と先輩が自分の食パンを一枚くれた、

サッカー部はお腹空くだろ、これから毎朝オレのパンを一枚勝手に取って食べていいよ、と先輩はポンタと目を合わせずボソボソと言った、

ありがとうございます!とうれしさと驚きのあまりポンタは興奮気味に言った、

それからというものポンタの夕食の揚げ卵が一個増えていたり、おかずの焼きそばの量が多くなっている事がしばしばあった、少食の隣の先輩が自分の食べられない分をポンタの皿に入れてくれるのだ、

日中でも全く日の当たらないポンタの部屋では洗濯物は全く乾かないので下宿の裏口の軒先に干していた、

夕方からひどい雷雨となった日、干しっぱなしの洗濯物はずぶ濡れだろうと諦めて帰ってきたポンタだったが、部屋に乾いた洗濯物が置いてあった、隣の先輩が気を利かせて取り込んでおいてくれのだ、

口数少なく大人しい、もの静かで不気味だと思っていた先輩だったが、とても優しい神のような人だった、

それ以来、ポンタは隣の先輩を神先輩と呼ぶ様になった。


下宿あだちは休日の夕食が無い、夕食はどうしようかと考えながらポンタが遠征試合からヘトヘトになって帰って来ると東京の母からダンボールが届いていた、

開けると、レトルトカレーやインスタントラーメン、チョコレートやお菓子などと一緒に手紙も入っていた、手紙は母からだった、美味しい物を作ってあげられなくて可哀想などと少し感傷的な中身だったがポンタは全く涙は出なかった、

いつもパンとおかずをくれる神先輩に御礼としてレトルトカレーとチョコレートを渡し、さて今日の晩飯はどれにしようか、と思案していると、吉田先輩が窓からようと顔を覗かせた、最近は吉田先輩のために窓の鍵は寝る時以外かけない、

お、仕送り来たな、インスタント焼きそば作ってやるから来い、と言う、ポンタがインスタントラーメンだと思っていたそれはよく見るとインスタント焼きそばだった、

先輩は電熱線のコンロに水を入れた鍋を乗せ電源を入れた、ガスコンロは禁止なので住人達は部屋での簡単な料理用に電熱線コンロを持っていた、

水の量がポイントなんだ、と先輩は言う、電熱線コンロは温まるのに大変時間がかかる、少量の水でも沸騰するのに三十分かかった、

沸騰した鍋にインスタント麺を入れ暫く煮ると先輩は裏返した、それを何度か繰り返すと麺がほぐれ水分が減って来た、ここでソースを入れる、と言って先輩は粉のソースを全体に丁寧に掛けて混ぜた、最後に青海苔を乗せるて完成、

水が多いとべちゃべちゃで美味しくないんださあ食え、としたり顔で吉田先輩は言った、


マネージャーの日奈子が試合中に飲む水の入ったボトルをピッチの周りに置いて回っている、ポンタは俊介とパス練をしながらその様子を目で追っていた、

ジャージ姿の日奈子は普段は下ろしている薄茶色のセミロングの髪を後ろで束ねている、片手に抱えた数本のボトルを一本ずつ置く度にポニーテールの束がふさっと肩から落ちた、

その姿をボーッと見ながら惰性でパス練をしていたら、視線に気付いた日奈子がポンタを見てニコリ微笑んだ、気付かれたポンタはドキリとして俊介のパスを豪快に空振りした、慌ててボールを取りに走るポンタを見て日奈子は、ポンタ集中しろ、と笑いながら声を掛ける、

噂では先輩の何人かが日奈子に告白したらしい、でも日奈子は、好きな人がいるから、と全てカラリと断ったそうだ、日奈子の好きな人って誰なんだろう、最近ポンタは、もしかしてオレかも、なんて考えたりしていた、

ポンタはトイレで鏡を見て思い出した、昨夜伸びすぎた髪を自分で散髪したのだった、鏡の中のポンタは前髪パッツンでトレードマークの大きなオデコが丸出しになっていた、

毎月の床屋代2500円はポンタにとって大金だ、というより今月の床屋代は全て食費で消えてしまった、

仕方なくホームセンターで髪梳き用の剃刀を買い、ポンタは自分で前髪を梳いた、もう少しもう少しと梳いているうちに短くなりすぎてしまった、もうどうにでもなれ、と横やら上やらあちこち適当に梳いてたら所々穴の空いた落ち武者の様なザンバラ頭になってしまった、

こんな髪型じゃ日奈子に好かれる訳ないよな、と鏡の中のあられもない自分の姿にポンタはがっかりした。


あーあ、早く髪伸びないかなあ、ポンタは部屋でツンツルテンの前髪を指でつまみ上目遣いで僅かに見える髪の先端を見ていたら、ポンター風呂空いたぞー、と首からタオルを掛けた吉田先輩が窓を開け風呂上がりの熱った顔で覗き込んで来た、

お前自分で切ったのか、ポンタの髪を見るや先輩は大きな目をギョッと見開いた、ハハハ、ひどいな俺が揃えてやるから来な、と自分の部屋に呼んだ、

吉田先輩は新聞紙を何枚か敷くと自分用の梳き剃刀を出して、言ってくれれば切ってやったのに、とポンタの髪を梳き始めた、そもそも先輩が自分で髪を切っていると聞いてポンタもやってみたのだった、

まあこんなもんだろ、と先輩は手鏡をポンタに渡した、所々穴の空いていたザンバラ頭は整い、見た目は大分マシになったが切りすぎた前髪だけは元に戻ることはない、

どうやって自分で切るのか聞くと、伸びた所を少しだけ切るのだと言う、一度に多く切ると変な髪型になる、二三ヶ月に一度は床屋に行って揃えてもらえと言われた、

ポンタはお礼に部屋からインスタント焼きそばを持って来て渡すと先輩は嬉しそうに受け取り、ギターを手に取り長渕剛の純恋歌を弾き始めた、フルコーラス歌い終えると、逆流弾いてみ、とポンタにギターを差し出す、うまくなったな、と先輩は言うと一緒に大声で歌った、

やばい風呂抜かれるぞ、と先輩は時計を見る、風呂は九時になるとお湯を抜かれてしまう、ポンタは慌てて階段を降り部屋に戻ると風呂に走った、

風呂から出ると九時を過ぎていた、先程まで賑やかだった下宿あだちに静寂の夜が訪れる、ポンタは他の住人達の様に勉強する事無く布団に入りあっという間に深い眠りに落ちた。


夏の全国大会のインターハイ予選が近づいた、ポンタ、俊介、ゴンの三人は一年生ながらメンバーに入った、予選のメンバーは25人、総勢80人近いサッカー部で一年生でメンバー入りしたのはポンタ達三人だけだった、

週末に予選初戦を控え一層熱を帯びてきた練習は夜遅くまで続き、週末は朝から晩まで練習試合だった、中間テストの勉強などそっちのけでポンタはサッカーに打ち込んだ、

一回戦相手は同じ市内の高校、何度も対戦したことがある楽勝出来る相手だった、メンバー25人の中から試合ごとに18人のベンチ入りメンバーが選ばれる、ポンタ達三人はベンチ入りし、ポンタと俊介はなんと11人のスタメンに選ばれた、

左サイドバックで先発出場したポンタは俊介のクロスボールに得意のヘディングで高校初の得点を決めた、俊介も持ち前の俊足を活かし相手の裏を取って得点、後半にはゴンも出場し、一年生三人にとって記念すべきデビュー戦は大差で勝利した、

公式戦に一年生でスタメン出場し得点まで上げたポンタが意気揚々と学校に行くと、サッカー部監督で数学教諭の野田先生に呼び出された、

8点と書かれた数学の答案用紙を見せられ、なんだこれは、と先生は言う、部活に夢中で中間テストの勉強をほとんどしなかったポンタは数学以外の教科も惨憺たる結果だった、

ポンタの高校は県内一の進学校、進学校は大学に入ることが大命題、でも大学進学の為だけの詰め込み教育にポンタはどうしてもやる気が湧かなかった、

野田先生に自分の考えを告げると、そうかお前がそう思うならそれでいい、と言ったきり何も言わなかった、

それ以降もポンタの成績は超低空飛行を極めていたが、それについて野田先生が咎める事は一度も無かった。


ゴンは学年で一番成績が良いがそれを鼻にかけるような事はしない、それどころか勉強している素振りすら感じさせない、

サッカー部は平日は厳しい練習に毎週末練習試合が入り勉強時間はそれほど取れないはずなのに、常に一番の成績をキープしているゴンは一体いつ勉強してるのだろう、とポンタはいつも不思議に思っていた、

いつ勉強してるの、と聞いたら、家で勉強はしない、とゴンは言う、勉強しないで学年一番の成績など取れる訳ないとポンタが疑うと、ならば家に来いと言うので俊介と日奈子とゴンの家に行ってみることにした、

ゴンの部屋はとても殺風景だった、勉強机には教科書だけが並べてあり参考書の類は一冊も無い、机は傷も無く勉強している痕跡が殆ど見えない、

ポンタは部活にも入らず毎日一生懸命勉強だけしている吉田先輩の部屋とゴンの部屋のあまりの違いに驚いた、

勉強は授業中だけ、習った事は全てそこで覚えてしまう、と当たり前のようにゴンは言った、人一倍大きな頭とポンタよりも広いオデコ、ゴンはその大頭の中に教科書を見た瞬間にパッとカメラのように記憶してしまうらしい、

記憶力が物を言う受験勉強において、凡人は覚える事に必死の努力をする、それを世間では勉強と呼ぶのだが、そんなものゴンにとっては容易い事なのだろう、

ゴンの両親は地元の国立大学の教授をしている、その二人から譲り受けた頭脳はポンタの想像をはるかに超えるものであった、

そう言えば吉田先輩が言っていた、俺は天才じゃない、一生懸命勉強してもこの程度だ、天才には敵わないんだよ、と、

世に中には天才という類稀な能力を持った人がいる、そういう人をポンタは初めて目の当たりにした、

自分は勉強をどんなに頑張っても絶対にゴンには勝てない、だったら適当でいいや、
ポンタの勉強に対する意欲は尚更下がって行った。


サッカー部はインターハイ予選を順調に勝ち上がり、決勝戦に駒を進めた、

決勝の相手は同じ市内にある私立のサッカー強豪校、選手の殆どは監督が関西方面まで出向いてスカウトして来たスポーツ推薦の生徒達で彼らは寮に住んでいる、監督もコーチも関西人で学校の周辺では関西弁が飛び交いまさにリトル関西といった感じだった、

スポーツ推薦が無い公立高校のポンタ達サッカー部は戦力的に圧倒的に不利だったが、打倒私立を合言葉に文武両道で日々厳しい練習を積んできた、ポンタ達にとっても負けられない一戦だった、

全身黄色づくめのユニフォームの彼らの眼光は鋭く、顔や手足は黒を通り越したどす黒い色をしている、焼けた顔に白目がやたらと目立ち、サッカー選手特有の短い脚は筋肉が盛り上がり隆々と太い、

学校では色黒で知られるポンタ達サッカー部員でさえ彼らの前では色白に見え、山走りで鍛えた脚も細く見えた、

試合は拮抗し前半両チームとも無得点、後半も0−0のまま残り数分となった時、相手チームの放った強烈なシュートのこぼれ球をクリアしようとポンタチームの選手が蹴り返す足にも恐れず頭で突っ込んで来られ失点、そのまま試合終了となりポンタの高校は敗れた、

彼らは強豪校でプレーする為に親元を離れサッカー漬けの日々を送っている、地元の県立高校に負ける訳には行かないという強い思いと覚悟をポンタは思い知らされた。


吉田先輩に、この学校に夏休みなんて無いで、と言われてはいたがこれほどひどいとは思わなかった、夏休みに入ったものの名ばかりで夏期講習と言う名目で普段どおり学校に通う、

夏休みの前半二週は前記夏期講習、お盆期間に雀の涙の夏休みがあり、後期夏期講習、そのまま二学期に突入となる、

何の為にここまで勉強しなければならないのかポンタは疑問に思うが仕方ない、猛暑の中クラクラになりながら前記夏期講習を終えた、

僅か一週間ほどの短い夏休みポンタは東京の実家に帰省した、母は帰省して最初の数日間こそポンタの好きなご馳走を作りお客様の様にもてなしてくれたが、その後は両親から毎晩低迷する成績の話ばかりされるようになった、

高校は大学に入る為に勉強をしに行く所という父とサッカー部で全国大会に出たいポンタの正反対の考え方に折り合いなど付くはずも無い、

父は部活を辞めろと迫り、ポンタは絶対辞めないと拒む、毎夜堂々巡りの話し合いが続き、挙句は父が怒鳴り始め、取っ組み合いに発展する日もあった、

父の考えに同調する母はポンタの味方につく訳なく、壮絶な親子喧嘩を怖がる幼い妹と弟を連れいつも二階へ逃れた、

孤立無援のポンタは早く下宿あだちに帰りたかった、

短い夏休みを居心地の悪い実家で過ごし、勉強頑張るのよ、と言う母の言葉に何も答えずポンタは帰りの夜行列車に乗り込んだ、

この帰省で家族との間に今迄感じた事の無い疎外感と距離感を感じた、一人暮らしの気楽さを知ってしまったポンタにとって家族と暮らすという事は煩わしくなりつつあった、

下宿あだちに戻ったポンタが部屋で寝転がっていると、実家でうまいもん食って来たか、と窓から吉田先輩が顔を出した、ここの方が気楽でいいです、と答えると、実家がいいのは最初の何日かだよな、と先輩はニヤリ笑った、


帰省から戻った翌朝ポンタがビニールのクローゼットの中から学生服を出すと全体に雪が積もったように白いホコリが沢山付いていた、黒いはずの学生服が白くなっている、わずか一週間でこんなにホコリが付くのかと思いながら雑巾でホコリを拭くが中々ホコリは取れない、

水道で雑巾を濡らしゴシゴシ擦っていたら吉田先輩が、それはカビだから拭いても取れない、と言う、ポンタが学生服を嗅ぐと強烈なカビ臭に思わず顔を背けた、昼間でも全く日の当たらないポンタの部屋では一週間留守にしただけで学生服がカビだらけになった、

その服はもうダメだ俺が昔着てたのがあるから、と先輩は部屋から学生服を持って来てくれた、小さくてもう着られないからあげる、と言うので着てみると上着は大きく袖から指が出ない、ズボンも丈がかなり長い、そこでポンタは袖を折り裾を安全ピンで止め、後期夏期講習の始まった学校に向かった、

ブカブカ学生服のポンタを見てクラスメイト達は笑った、学生服がカビた事を話すと皆の大爆笑を誘った、それを黙って聞いていた日奈子が、お母さんに頼んでまつり縫いしてあげる、と言った、

ポンタが自分で髪を切って穴だらけの髪型になった時も、サイズの合わない学生服を着て来ても、それを見て笑ったりはしない、日奈子はそういう子だ。

日曜の夕食を食べに来て、と日奈子に誘われた、学生服をまつり縫いするから持って来るようにと言う、下宿あだちは日曜の夕食が無いからポンタにとってこんなありがたいお誘いは無いのだが、女の子の家で夕食をごちそうになる気恥ずかしさと遠慮もあり一度は断ったものの、もうお母さんに言ってあるからと日奈子は半ば強引にポンタを招いた、

日奈子のお母さんは日奈子と並んでいると姉妹ではないかと思えるほど見た目も若く綺麗な人だった、ブカブカの学生服を着たポンタの肩にメジャーを当て、スボンの丈を合わせ、これぐらいでいいよね、と安全ピンを付け要領よく採寸すると、着替えていいよ唐揚げ沢山作ったから食べてね、とポンタにやさしい笑顔を向けた、

たまに出てくる下宿あだちの唐揚げはパサパサの肉で一人三個だけ、日奈子の家のはジューシーでやわらかくとても美味しかった、ごはんもどんどんお替りして、と言うのでポンタは遠慮せず茶碗五杯とからあげは何個食べたかわからないほど食べた、

よく食べるな、俺のも食え、と日奈子のお父さんはビールを飲みながら優しい面持ちで目を細めながら言う、まるでドラマのワンシーンの様だ、理想的な家族団欒の光景にポンタはあの居心地悪かった帰省の事を思い出した、

優しいお父さんとお母さんだな、と帰り道ポンタが日奈子に呟くと、そんなことはない怒ると滅茶怖いよ、と日奈子は笑った。


月曜日の朝、下宿あだちの住人四人が揃って食堂で朝食を食べていると、ポンタ出来たよ、と日奈子が学生服を持って現れた、

ここは女子入っちゃいけないんだよ、とポンタが慌てて言うと、おばさんに言ったら入れてくれた、と日奈子はあっけらかんと言い、じゃ学校でね、とニコリ笑うと制服のスカートをひらりと翻し出ていった、日奈子が去った後には仄かなシャンプーの匂いが残った、男だけの下宿あだちには無縁の香りだ、

ポンタと日奈子のやり取りを見ていた吉田先輩とマッチ先輩がパンを片手に固まっている、

あ、あれお前の彼女か、とマッチ先輩が目を見開きポンタに訊ねた、めっちゃ可愛い子やな、吉田先輩はただでさえ大きな目をさらに大きく見開いて言った、そんなんじゃないですよマネージャーです、とポンタは慌てて否定するも、二人は、ふーん、と横目でポンタを誂うように見た、

そんな二人とは対象的に神先輩は黙々と食パンを食らうと、ごちそうさま、とボソリと言い何事も無かったかのように自分の部屋に戻っていった、


部活の練習中、おいポンタちょっと来い、と監督の野田先生に呼ばれた、母が学校に、サッカー部を辞めさせたい、と電話してきたそうだ、

母は成績の事を随分心配していたらしい、どうする辞めるか、と先生が聞くので、絶対辞めません、とポンタは答えた、

だろうな、俺が辞めろと言ってもお前は辞めないと思う、とお母さんには言っておいた、この学校の勉強は大変だが進学校とはそういう所だ、あとは両親ととことん話合え、お前が本気でサッカーに取り組んでいる事が伝わればわかってもらえるさ、と野田先生は言った。


下宿あだちには実はもう一人住人がいる、ポンタはその住人の顔を一度も見たこと無いのだが、吉田先輩は何度か会った事があると言う、

その住人とは大家の一人息子、ポンタ達の部屋と棟繋がりの大家の母屋の二階に住んでいる、吉田先輩曰く挨拶しても無視するデブでもっさりした愛想の無い奴らしい、年格好は四十程とのことだった、

ある日ポンタが一人で遅い夕食を食べていると、大家の母屋の階段を何やら喚きながらダダダと上がりドアをバタンと強く閉じる音が聞こえた、

うるせー!このばばあ!床を踏み鳴らしながら怒鳴り声が何度も聞こえた、何を言っているのかよくわからないが下の部屋のおばさんに向かって怒鳴っているようだった、

ポンタは怖くなって食事の手を止め呆然としていると、またやってるな、と吉田先輩が階段を降りてきた、最近静かだったのに、と言う、

今で言う引き籠もりの状態だったのであろう大家の息子は仕事をしているのかも謎だった、しょっちゅう母親と喧嘩しては二階の自分の部屋から一階に向けて怒鳴るらしい、

マッチ先輩も神先輩も慣れたもので部屋から出てくることも無い、そのうち落ち着いたのか息子の怒鳴り声はしなくなった、

あんな大人にはなりたくねーな、と吉田先輩がボソリと呟く、

いい大人が年老いた母を怒鳴りつけるという衝撃的な事件だったが、その後も度々繰り返される大家の親子喧嘩にもそのうち慣れた、

部活のことで親と何度も揉めたポンタは大家の息子を見て思う所があった、次に帰省した時は両親としっかり向き合って話し合おうと心に決めた。


突然ポンタの母から週末に帰ってこいと電話が掛かって来た、母は東京の高校の編入試験を受けろと言う、

今まで父の転勤の度に転校を繰り返してきた、下宿あだちに来たのだって結局は親の身勝手が原因だ、自分の意思を確認することなく勝手に編入試験を申し込んだ母にまたかとポンタは腹が立った、

サッカー部は秋のリーグ戦真っ只中、スタメンで出ていたポンタは試合を休みたくは無かったがこの機会に両親としっかり話し合う覚悟で東京の実家に戻った、

母が出願した高校は東京でもそこそこレベルの高い進学校だった、ポンタは全く乗り気では無かったが母の手前取り敢えず編入試験だけは受けることにした、

試験は難しく結果は自ずとわかった、午後には面接があり、面接官の先生は蔑んだような目でポンタを見ながら、君の高校はとても優秀だと聞いてますよ、と田舎の進学校を明らかに見下して言った、

自分は確かに勉強出来ないが高校の事を馬鹿にされる事は絶対に許せなかった、ゴンの様な天才もいる、吉田先輩みたいに信念を持って勉強に取り組む生徒も多い、文武両道で部活にも熱心な自分の高校をポンタは誇りに思っていた、

こんな学校絶対に入るものかと思ったポンタは、好きな音楽は、との面接官の問いに、ロックです忌野清志郎が大好きです、と答えた、隣で聞いていた母はギョッとしてポンタを睨み付けた。


編入試験から帰るなり家族会議が始まった、母は面接でポンタがロックが好きだと言った事を早速父に報告した、何でそんな事を言ったんだ、とそれを聞いた短気な父は怒鳴り始めた、正直に言って何が悪いんだ、とポンタは言い返す、

ポンタが帰省する度に繰り返される親子喧嘩に、また始まったと妹と弟は隣の部屋で怯えている、母は二人に二階へ上がるよう促した、

テストの出来を問われるが出来るはずもないポンタは黙って首を横に振り、あんな高校絶対行きたくない、と言うと、お前はいつも自分勝手だ、と父は一段と声を荒げた、

母はポンタの下宿暮らしにはお金が掛かって大変だ、と言う、あなたに使う予算はとっくにオーバーしている、とポンタを責めた、

親と正面から向き合いとことん話し合う覚悟だったポンタは黙って聞いていたが「自分勝手」「予算」という両親の言葉に抑えていた箍が一気に外れた、

「勝手なのはどっちだ!」

突然のポンタの大声に父母は一瞬怯んで黙った、

「オレは今まで何回転校させられた!小学六年の二学期に転校が決まった時、頼むからこの学校を卒業させてくれって泣いて頼んだけど全く聞いてもらえなかった、オレが電車の運転士になりたいって言った時も父ちゃんは、そんなの絶対ダメだ!勉強していい大学入ってサラリーマンになれって怒鳴った、電車の運転士の何ががダメなんだ!オレは転勤ばかりのサラリーマンになんかなりたく無いんだ!」

「それから母ちゃん、親戚の叔母ちゃんの家を突然出ろって部屋も見ないで勝手に下宿決めて、オレの部屋は昼でも真っ暗で日が全く当たらないんだ、夏休み終わって帰ったら学生服がカビだらけだった事知らないだろ!そもそも親の都合で一人暮らしすることになったのに予算って一体何だ!挙げ句オレの意見も聞かないで勝手に編入試験受けろなんて冗談じゃない!」

「オレはもう子供じゃない!自分の事は自分で決める!」

ポンタは両親に対する積年の思いの丈を全てぶちまけた。

全部あなたの為に良かれと思ってしたことなのよ、と母がしくしく泣き出した、泣く母を見てポンタは言いすぎたかなと少し反省した、父はものすごい剣幕で怒鳴り散らしていたが急に静かになった、

ひとしきり泣いた母は突然顔を上げて、はいはいわかりました!全部私が悪いのね!と投げ捨てる様に言うと二階の妹と弟を引き連れ玄関を出ようとする、父は母の肩を抑えて、少し落ち着け、と諭すがその手を振り切って母は出て行ってしまった、

母は一時間経っても二時間過ぎても帰って来なかった、そのうち父はオロオロと母が行きそうな親戚やら友人の家に電話を掛け始めた、

暫く電話をかけ続け近所の家に母が居ることを突き止めた父はあたふたと迎えに出て行ってしまった、

一人取り残されたポンタは、何か全部オレが悪いみたいになってしまった、もしかしたら自分は下宿あだちの大家の息子と同じ事をしているのかも知れない、などと自問自答していた、

居場所が無くなったポンタは夜行に乗るには大分早かったがバッグ一つの荷物を持ち見送る者も無く一人家を出た、

夜行列車の車窓をポツリポツリと家の明かりが通り過ぎていく、あの一つ一つの明かりの中では家族が楽しく団欒しているのだろうか、オレはその家族と一生会うことも無いのかな、などと取り留めない事を考えながら線路のリズムに身を委ねる、

列車が街を抜け山間部に差し掛かると真っ暗な夜の闇から例えようのない孤独感と寂寥感が大きな波の様に押し寄せて来た、

ポンタは消毒液の臭いがする寝台列車の枕に顔を押し付けて泣いた、そしていつの間にか眠りに落ちた。


翌朝、夜行列車が駅に到着するとポンタはそのまま学校に向かった、

教室に入るなり、試験はどうだった、とクラスメイト達が周りに群がって来た、ポンタは面接で、忌野清志郎が大好きです、と言ってやったと言うと、さすがだな、と大受けだった、

転校しないよね、日奈子が不安げな表情で聞いて来た、誰が行くかあんな学校、とぶっきらぼうに言うと、よかった、と日奈子はホッと胸を撫で下ろした、ポンタには日奈子の瞳がなんだか少し潤んでいる様に見えた、

ほんの数日間しか部活を休んで無いはずなのにグランドに来るのはとても久しぶりに思えた、改めてサッカー部のグランドをグルリと見渡し、ああ気持ちいい、とポンタは両手を広げて大きく深呼吸した、

サッカー部の仲間達との何気ない会話が今日はやけに嬉しくて何故か涙が出そうになる、ポンタは目から涙が溢れ無い様に上を向いて誤魔化していた、

肩をポンと叩かれ振り向くと野田先生だった、編入試験と家族会議の経緯を話すと、ハハハ、お前だけが悪い訳じゃないがもの言えば唇寒しって奴だな、と言い先生はニヤリと笑った。


勉強しないなら仕送りを減らすと母から連絡があった、増やして欲しければ成績を上げろと言う、両親はとうとうサッカー部のポンタに一番堪える兵糧攻めに出て来た、

これでポンタの一日の生活費は100円減り400円になった、100円は大きい、楽しみだった三限の休み時間のマヨパンと部活前の牛乳が買えなくなった、クラスメイトやサッカー部の仲間達はそんなポンタを可哀想に思い代わる代わる奢ってくれたりしたが、人に頼りすぎるのもポンタはだんだんと気が引けるようになった、

父母は勉強して良い大学に入りサラリーマンになれ、と言うがポンタにはコレと言って将来なりたい職業がある訳でも無いし勉強をする目的もわからない、でも背に腹は変えられ無い、仕送りを増やしてもらうために少しずつ勉強を始めてみることにした、

成績上げるにはどうしたら良いかとゴンに聞くと、英語の構文150を一日5フレーズずつ暗記する事、あとたくさん本を読め、と言って夏目漱石の坊っちゃんの文庫本をくれた、

その夜、ポンタが珍しく勉強机のスタンドを点けて坊っちゃんを読んでいると吉田先輩がガラリと窓を開け、お前まさか勉強してるのか、と驚いて大きな目を尚更ギョロと見開いて言った、

とりあえず本を読む事にした、とポンタが答えると、読んだから、と言って自分の部屋から漱石の文庫本を何冊か持って来てくれた、

翌日、話を聞いた神先輩も、コレもあげると文庫本を持って来た、ポンタの机の本棚には夏目漱石がズラリと揃った。


よりによってこんな時に愛車の黄色い自転車がパンクした、自転車屋に持って行くと修理代800円だ、仕送りが減らされ食費でカツカツのポンタは俊介がパンク修理セットを持っていると聞き自分で直してみる事にした、

自転車屋の見様見真似でタイヤをゴリゴリ外し、中のチューブを出し空気を入れ水に漬けると穴の空いた所からポコポコと水泡が出てきた、穴にマジックで印を付けて接着剤を塗り乾いてからゴムのパッチを貼る、なんだ簡単だな、とタイヤを元に戻し空気を入れたが翌朝になるとまた空気が抜けていた、

他にも穴があるのかともう一度タイヤを外し調べると何箇所からもポコポコと水疱が出る、タイヤの外し方が雑でチューブ全体に小さな穴が沢山空いてしまっていた、

仕方なく自転車屋に持って行くとチューブ交換は2500円と言われ、とても払える額ではなかった、そこで俊介の家の空気入れを借り常に荷台に積んでおき抜けたら入れる事にした、

部活前に空気を入れ、練習終わりにまた空気を入れる、そんな事を繰り返していると空気が抜けるスピードは次第に早まりサッカー部のグランドに行くのさえ持たなくなった、

空気を入れる事が面倒になったポンタはパンクしたままタイヤをガコンガコン鳴らしながら乗るようになった、年季物の自転車はすぐ悲鳴を上げ始めギアもすり減り空回りし、チェーンが簡単に外れてしまうようになった、

ポンタが手を真っ黒にしながらチェーンを直していると日奈子が、明日から私の自転車使っていいよ新しいの買ったから、と買い換える程古くない白いママチャリを貸してくれることになった。

借りた自転車は日奈子が毎日乗っていた、ハンドルには日奈子の手の温もりがまだ残っている様で、なんだか日奈子と手を繋いでいる気がして、自転車に乗る度ポンタは全身が熱く火照るような感じがした、

日奈子はとても優しい子だ、今までポンタが困った時はいつも助けてくれた、でもその優しさはポンタだけに向ける訳では無い、困っている人を目にすると誰にでも手を差し伸べる、そんな場面を何度も目にした、

日奈子に今まで告白して振られた輩はポンタが知っているだけでも数知れない、好きな人がいるからとあっさり断るらしい、冷酷非情にも思えるが中途半端な返事をされるよりはっきり断ってもらった方が諦めも付きやすい、もしかしたらそれも日奈子の優しさなのかも知れない、

日奈子の好きな人って誰だろう、もしかしたらオレかもしれない、そうだ今度自転車の御礼を口実に映画に誘ってみよう、でも断られたらどうしよう、ポンタは切りすぎてツンツルテンの前髪を指で摘みながらぐだぐだ考えていた、

部屋で仰向けに寝転んで壁のアイドルのポスターを眺め、この子よく見たら全然可愛くないな、とポンタは独り言を呟いた、日奈子の方が断然かわいかった、もうこのポスター剥がしてしまおうか、

アイドルの顔が次第に日奈子の顔に見えてきた、ほんの少し前までこの手は日奈子の自転車のハンドルを握っていた、ポンタは自分の手を鼻に当て匂いを嗅いだ、日奈子のシャンプーのいい香りがする気がした。


語彙力の無いポンタにとって漱石を読む事は最初苦労したが何冊か読んで行くと面白くなって来てサッカー部の遠征にも文庫本を持って来て空き時間に読む様になった、

顧問の野田先生が、お、やっと勉強する気になったか、と茶化すので、なんだか照れくさく思ったポンタは、仕送り増やしてほしいだけですよ、とはにかみながら答えた、

一日五個づつ覚えることにした英語の構文150は一ヶ月ほどで一通り終え、また最初に戻り復習を何度も繰り返すうち150のフレーズは全て丸暗記しスラスラ言えるようになった、

校内模試でポンタは英語の問題を見て驚いた、なんと覚えたフレーズが数多く出題されている、長文も知らない単語以外は何となく読めた、今まで模試の時間はほとんど寝ていたポンタは夢中で解答を書いた、夏目漱石効果か現代文も少し手応えがあった、

模試の後ポンタは英語の先生に職員室に来るよう呼び出された、点数が急激に上がった事を不審に思われたのだ、ポンタが英語の構文150を丸暗記した事を告げると、それは良く頑張った、と褒めてくれた、

校内模試のポンタの英語の順位は100番以内へと一気に跳ね上がった、国語は少しだけ順位を上げた、

英語は面白いし何処かで役に立つだろう、本は人生勉強にもなるから沢山読もう、少しだけ勉強にも興味が湧いてきたポンタだった。


英語が100番以内になったと電話で告げると母は大層喜んだ、あなたはやれば出来るのよ、と言われ少し嬉しくなった、調子に乗って仕送りを元に戻して欲しいと言ってみたが、英語だけでは、とポンタの願いはあっさりと却下された、

吉田先輩は最近ポンタの部屋に顔を出す回数がめっきり減った、神先輩の部屋からは相変わらず物音一つしない、大学共通一次試験まで残り数ヶ月と迫り下宿あだちの三年生の受験勉強はいよいよ大詰めとなっていた、二人は三年間このために部活にも入らず勉強に励んで来たのだ、

ポンタは勉強の邪魔にならないようにといつもよりラジカセのボリュームを下げて音楽を聞きながら漱石を読んでいると、久しぶりにようと吉田先輩がポンタの部屋の窓から顔を覗かせた、勉強のし過ぎか少し頬のコケた顔に特徴のギョロ目が一段と目立つ、

ああ、あともう少しだ、俺は受験勉強の為に青春の三年を犠牲にしてきた、だから終わったら思い切り遊ぶ、まずやりたいのはパチンコだな、と吉田先輩は宙を見つめながら呟くように言う、え、パチンコ、とポンタが言うと、俺はもう18だからパチンコ屋に行けるんだよフフフ、と笑った。


冬の全国高校サッカー選手権の県予選が始まった、夏のインターハイは県予選決勝で地元の私立サッカー強豪校に敗れた、今回も決勝の相手はおそらく同じになるだろう、次は絶対に負けられない、

ポンタ、俊介、ゴンの三人は最終登録メンバー25人に選ばれ、ポンタと俊介は初戦から先発メンバーとして活躍した、ポンタの高校は順調に勝ち上がり因縁の相手との決勝戦を迎えた、

相手高校はトレードマークの全身黄色ずくめのユニフォームに身を包み、晩秋だというのに顔はビターチョコレート色に日焼けし白目だけがやたらと目立つ、眼光は鋭利な刃物の様に鋭く一列に並んでいる選手達は背丈が違うだけで皆同じ顔に見えた、応援席には沢山の垂れ幕が掲げられ、100名以上いるだろうかベンチ入り出来なかった部員たちがメガホンを持ち応援歌を歌っている、チーム一丸で絶対に勝つという思いの強さが伝わって来る、

ポンタ達の応援席も負けてはいない、今日は校長の計らいで全校応援となり、それに保護者達も多数加わり数では圧倒的に勝っている、ブラスバンドにチアガールもいる、華やかな応援団が応援席を盛り上げていた、

ポンタと俊介は決勝戦のスタメンに選ばれた、地響きのに様に伝わってくる相手高校の野太い声の応援に最初は少し圧倒されたが、円陣を組みキャプテンの熱い言葉を聞いたポンタ達は試合への集中力が一気に高まった、

主審の長い笛が鳴り、三年生にとっては負けたら終わりの引退を賭けた試合が始まった、

試合は開始早々から黄色い軍団の猛攻に合いポンタの高校は防戦一方の展開だった、縦に縦にハイスピードで次々と繰り出される相手高校の攻撃を何とか凌ぐだけで反撃は全く出来ないまま前半を終えた、

相手高校応援団の低音ボイス応援歌がグランド中に響き渡っている、前半の攻撃を体を張って耐え抜いた全身土まみれのポンタ達は疲労困憊でベンチに引き上げて来た、

俯き加減のポンタ達にマネージャーの日奈子が水の入ったボトルを一人一人手渡す、日奈子のスマイルとボトルを受け取った選手達は皆魔法のように急に元気を取り戻し顔を上げて微笑み返す、ポンタもありがとうと受け取ると、よく頑張ったね、すごかったよ、と日奈子がニッコリ微笑んだ、ポンタは日奈子の笑顔の眩しさに一瞬ドキリとした、そしてご多分に漏れず先程までの疲労はどこかに吹っ飛んでしまった、

後半に入ると今にも泣き出しそうな曇天の空からポツポツと雨が落ちてきた、一度降り始めた雨は止むことなく次第に強くなりとうとう土砂降りになった、相手高校の猛攻は後半になっても続いていたが強雨で水の浮いたグランドでは思うようにプレー出来ず試合はどっちつかずの小康状態になっていた、

監督の野田先生は試合の流れを変えようと前線にゴンを投入した、ゴンは持ち前の頭脳で相手の動きの裏を取るのが上手い、ポンタはボールを受けると前線にいるゴンにチラリと目をやる、ゴンは自分より少し前のガランと空いたスペースを指差した、ここに出せ、と言っている、

ポンタは水たまりに浮いたボールをゴンの指差す方に思い切り蹴った。

後半残り僅か、バシャッ、水飛沫と共にポンタが蹴ったボールは相手の裏のスペースにタイミングよく飛び出したゴンの前に、ボチャン、と水を跳ねて落ちた、ボールが転がって来る事を予測して飛び出したキーパーは水溜りで突然ボールが止まった事に驚き慌ててゴールに戻ろうとするが、冷静なゴンはそんなキーパーの頭上をフワリと超すループシュートを放った、

キーパが飛びつくも届かない、そのままボールはゴールに吸い込まれた、

ポンタの高校は後半残り僅かのところで先制点を上げた、ゴールを決めたゴンの元に皆が集まり、ヤッタ、ヤッタ、と万歳している、ポンタはゴンに真っ先に駆け寄りギュッと抱きしめた、大雨に打たれ静かになっていた応援席も皆傘を投げ出しずぶ濡れになりながら飛び上がって喜んでいる、ポンタ達の歓喜をよそに黄色い軍団はすぐにゴールの中からボールを拾うと全速で戻り試合の再開を待っていた、主審は早く自陣に戻るようにポンタ達を促した、

先制された黄色軍団は残り時間があと僅かにも拘らず慌てることはなかった、応援団は野太い声で淡々とエールを送り続けている、ただでさえ鋭い彼らの眼光は先制されたことで一層凄みを増した、

試合はロスタイムに突入した、相手のコーナーキック、これが恐らく最後のワンプレーとなるだろう、ここを凌げば優勝だ、そして目標だった全国大会に行ける。


雨は一層激しさを増し、昼間なのに空は真っ黒な雲に覆われグランドは薄暗く、コーナーのキッカーがボヤケて見えるほどだった、このボールを蹴り返せばオレたちの優勝だ、ポンタは全神経を相手のマークに集中した、ゴール前は激闘で土色に染まった黄色いユニフォームの選手達の白目がギラギラと何十個も集まっている、相手キーパーも自分のゴールから離れ捨て身の攻撃参加して来た、

大粒の雨の彼方にぼんやり見えるキッカーがボールを蹴った、シュルシュルと雨を劈きボールが唸りを上げて飛んでくる、ポンタがヘッドでクリアしようとした時、突然ポンタの目の前を土色のユニフォームが横切った、獲物を狙う猛獣のような目はただボールだけ直視し顔面でボールに突っ込んで来た、

ヤバい!と思ったが時既に遅し、相手選手のビターチョコレート色の顔にジャストミートしたボールはゴールに一直線に飛んだ、キーパーは必死の形相で横っ飛びし手を伸ばす、バシッ、とキーパーグローブに弾かれたボールはフワリと浮いた、

必死に守るポンタ達と幾つもの鋭利な白目の中にボールが落ちて来る、クリア出来る、と皆が思った瞬間、もはや黄色とはわからない泥色のストッキングの足がスライディングしてきてボールにチョンと触れた
そしてボールはコロコロとゴールに転がり込んだ、

同点に追いつかれたポンタ達は延長戦に突入した。

完全に水の浮いたグランドに手こずり延長戦は思うようにプレーできなかった、15分ハーフの前半はあっという間に終わり、休む間もなく後半へ突入した、

ポンタの高校は勢いを増す黄色軍団に徐々に押される展開となった、ポンタ、俊介、ゴンの三人は山走りをサボらず鍛えた走力で延長戦後半になっても足が止まる事は無かったが他の選手達の疲労はとっくに限界を超え足がつる者が続出した、

収まることのない豪雨の中、黄色軍団は一層目をギラギラさせて襲い掛かって来る、水たまりで池の様なピッチではパスしたボールがすぐに止まってしまうので黄色軍団は高いボールを次々とゴール前に蹴り込んで来た、ポンタ達は必死で蹴り返しゴールを守っていた、

延長戦後半終了間近、ゴール前に放り込まれたボールに黄色軍団の大男が鬼の形相で突っ込んできてゴールを決めた、その直後試合終了の笛が鳴り響いた、

歓喜に沸き立つ黄色軍団の応援席、雨の中カッパも着ずエールを贈り続けたベンチ外の部員達の元にピッチ上の黄色い戦士達が駆け寄りハグでもみくちゃにされている、雨なのか涙なのかわからないが皆ぐしゃぐしゃに泣いている様子だった、

膝から崩れ落ちるポンタチームの選手たち、キャプテンは土下座するように蹲って地面をグーで何度も殴りつけている、その度に水たまりの水がピチャピチャと跳ねた、

勝負は残酷だ、あまりにも呆気ない幕切れだ、オレ達が負けたのは何故だ、努力は報われないものなのか、ポンタは雨の中呆然と立ち尽くし考えていた、


夏に続きポンタの高校はまたしても黄色軍団に全国の夢を断たれた。

試合後の挨拶も表彰式も何も覚えていない、気が付くとポンタはロッカールームにいた、

選手達は皆ずぶ濡れのまま頭を抱えて嗚咽していた、三年生はこれで引退なんだ、そう思うとポンタは涙が止まらなくなって大きな声で泣いた、

ロッカールームのドアが開き監督の野田先生とマネージャーの日奈子が入ってきた、いつも明るい日奈子が泣き腫らした真っ赤な目をしている、

そして野田先生は静かに話し始めた、

三年生のみんな三年間ありがとう、お前達は本当によくやった、

次の舞台でもこの経験は必ず生きる、お前達なら何でもやれる、これからも自信を持って正々堂々と人生を歩んで行って欲しい、

ただオレが一つだけ心残りなのは三年間一度もお前達を全国の舞台に連れて行ってあげられなかった事、それは全てオレの責任だ、お前たちは何も悪くない、本当に申し訳なかった、許してくれ、

そう行って野田先生は頭を下げた、野田先生の目から大粒の涙がポタリと落ちた、

お前たちの悔しい思いは後輩達が必ず果たしてくれるだろう、一二年生達は三年生の思いを胸に次を目指そう、さあみんな顔を上げよう、笑ってロッカールームを出よう、

三年生にとって高校最後のロッカールーム、野田先生の言葉を受け選手達には笑顔が戻った、お前ら頼んだぞ、キャプテンがポンタ達一年生の肩を叩いて言った、

勝利より敗戦から得るものの方が大きい、ポンタ達はまた一つ成長したに違い無い。


ロッカールームを出ると大勢の保護者達や応援団が残って待っていてくれた、

土砂降りだった雨は嘘の様に上がり雲の隙間から太陽が顔を覗かせていた、サッカー部員達が整列し、キャプテンと野田先生が応援御礼の挨拶をすると大きな拍手が沸き起こった、

三年生達は親や仲間達と最後の記念撮影を始めた、三年間やり遂げた先輩達の達成感と充実感に満ち溢れた顔がとても眩しく凛々しく見えた、

たけしと呼ばれて振り返ると母が立っていた、ポンタに内緒で東京から決勝戦を見に来てくれていたのだった、

あなたがこんなに本気でサッカーに取り組んでいるとは思わなかった、と母は言う、
減らした仕送りは元に戻す、但し勉強も頑張る事、と言い、これで美味しい物でも食べなさいと五千円札を差し出すと帰りの飛行機があるから、と母は行ってしまった、

帰ろっポンタ、いつもの笑顔で日奈子がポニーテールを揺らしながら駆けて来た、

ほら見てと日奈子が指差す方を見上げると、雨上がりの空には見た事無い程の大きな虹が掛かっていた。


ポンタは自分の部屋に寝転んで母から貰った五千円札を眺めていた、

県大会敗退で三年生が引退し、ポンタ達一二年生が主体となる新チームが活動開始するまで部活はオフになった、

さて、この五千円で何をしようか、ポンタは借りた自転車の御礼を口実に日奈子を映画に誘ってみる事にした、

お父さんが出たらどうしよう、断られたらどうしよう、下宿あだちのピンクの公衆電話に10円を入れ日奈子の家の電話番号を途中まで回しては何度も切る、

えーい、と意を決して電話を掛け呼び出し音が数回鳴った後もしもしと電話に出たのは日奈子だった、

今度の日曜日映画に行かない、ポンタは心臓が破裂しそうになりながら上擦った声で言うと、いいよ、と日奈子はあっさりと返事した、

あまりにも簡単にOKを貰ったポンタは少し拍子抜けしたが電話を切った後、喜びが湧き上がって来て、やったーっ、と大声で叫んだ、

たった今切ったばかりのピンクの公衆電話が鳴り出した、ポンタが受話器を取ると日奈子からだった、やっぱりやめとく、と言うではないか、

天まで昇る様な幸せな気持ちは一気に地の底まで突き落とされた、ポンタの喜びは唯のぬか喜びと変わった、

その代わり日曜日は家にご飯食べに来て、お母さんが楽しみにしてるから、と日奈子は言った、夕飯に呼んでくれるのはとても嬉しいがポンタは少々複雑な気分だった。


日奈子の母の美味しい夕飯をお呼ばれした帰り道、途中まで日奈子が送ってくれた、

ポンタごめんね小さな街だから噂になっちゃうと悪いから、でも映画に誘ってくれてすごく嬉しかったありがと、と日奈子は言うとポンタの頬にチュッとキスをした、

驚いたポンタは手でほっぺたを押さえながら日奈子を見た、じゃまた明日おやすみ、と言うと日奈子は目を逸らし踵を返し走って帰って行った、

今しがた自分の身に起きた奇跡のような出来事を現実とは思えないポンタは自分の手の平を眺めしばし立ち尽くしていた、

満月がお堀の水面に反射してキラキラと綺麗な夜だった。


ポンタは朝からえらくご機嫌だった、フンフンと鼻歌を歌いながらトーストにマーガリンとジャムをこれでもかと塗っていると目にクマを作った吉田先輩が隣に座った、受験勉強もいよいよ大詰めとなり昨夜も遅くまで勉強していたのだろう、

どうした、何か良い事あったのか、とポンタの異様な雰囲気に吉田先輩は怪訝そうな顔をして言う、いえ別にと言いながらニヤニヤしてるポンタに、お前大丈夫か、と先輩は呆れ顔だった、

学校に行くと日奈子はもう来ていた、周りを多くの友達が取り囲んで楽しそうに話をしている、

いつもなら気軽におはようと声掛けるのだが、今日は何だか照れ臭くて日奈子をチラリと見て自分の席に着いた、

そんなポンタに気付いた日奈子は何事も無かったかの様にポンタにおはようと話しかけて来た、

ああと返事したポンタだったが日奈子と目を合わす事が出来ない、いつもと何だか違うギクシャクした会話を少しだけした、

昨夜の出来事を日奈子は何とも思って無いのだろうか、それとも忘れてしまったのか、

女の方が男より肝が座ってるんだな、授業中机に頬杖付いて日奈子の後ろ姿を眺めながらポンタは思った。


吉田先輩がようと窓を開け、ほれと今日の戦利品のチョコレートをポンタに差し出した、

共通一次試験と国立大学二次試験を終えた吉田先輩は毎日パチンコ屋に通い出した、

夜ごとポンタの部屋の窓を開け階段に座り込みその日のパチンコの話をするのが日課になっていた、先輩の話はとてもわかりやすく、またポンタの興味をそそった、

ゼロ戦と言うパチンコ機種は台の中の飛行機の羽が拾った玉が真ん中の当たり穴に入ると連続して羽が開き玉をどんどん拾うらしい、今日は一台打ち止めにしたと言う、フィーバーという機種はデジタルが付いていて777か333が揃うと大きな穴が開き二箱いっぱい玉が出るらしい、今日はこんなに儲かったといつも先輩は鼻高々に話した、

お前はあと二年無理だな、と言われたが毎晩話を聞かされるポンタはパチンコがやりたくて我慢出来なくなった、

この街のパチンコ屋で見つかったら大事になる、ポンタは春休みの帰省の時に大阪で途中下車してパチンコ屋に行ってみる事にした、

大阪駅前のパチンコ屋は客も疎らだった、見るからに幼さの残る風貌のポンタを店員達はチラチラと訝しげに見たが何も言わなかった、ポンタはドキドキしながら初めてのパチンコを打った、

しかし吉田先輩から聞いていた様にジャンジャン玉が出る事は無かった、玉はみるみる無くなり追加追加を繰り返すとあっと言う間に手持ちのお金は尽きた、挙句もう少しで出るだろうと日奈子の土産代に取っておいた分まで全部スッてしまった、

ポンタは自分用に買ったRCのTシャツをお土産として日奈子にあげた、清志郎の顔が大きくプリントされたとても外では着られない様な柄だったが日奈子はとても喜んでくれた、パジャマで毎晩着ているらしい。


日奈子に一度は断られたがやっぱり二人で映画を見に行くことにした、ポンタが一番見たかったブルース・ブラザーズというR&Bの曲が満載のご機嫌な映画だ、

暗い館内でちらと横を見るとブルースに全然興味の無い日奈子はキョトンとスクリーンを観ている、ポンタは肩と肩が触れ合う程側に座っている日奈子の事が気になり全く映画に集中出来なかった、少し手を動かすと隣の日奈子の手に触れた、このまま握ってしまおうかと迷ったが勇気が無くて出来なかった、

次の日ポンタが部活に行くと、見たぞお前日奈子と映画に行ったろ、とサッカー部で一番おしゃべりな先輩が皆に聞こえるような大声でぶしつけに聞いて来た、

部員達の視線が一斉に集まる中ポンタが返事に窮していると隣にいた俊介とゴンが、オレ達も一緒でしたよ、とすかさず助け舟を出してくれた、日奈子との事は二人には黙っていたがいつもそっと見守ってくれる掛け替えのない親友だ、

ポンタは二年生の新学期から学校の寮に入れる事になった、ポンタが引越しの荷造りをしていると、次に部屋に入る予定の一年生が母親と共に下見に来た、

寮ではクローゼットが必要無いので、使うか、と聞いたら欲しいと言うので置き土産にする事にした、彼はサッカー部に入るつもりだと言う、

ポンタは彼の母親と下宿のおばさんが部屋を出たのを見計い、夏休みに学生服を置いたまま帰省するとカビが生える、丼に夜食用のご飯をキープする事、洗濯物は外の軒下に干す、でも雨が降ると濡れる、などこの部屋で暮らす際の注意点を彼に事細かく伝授し、何か困った事があったらオレに聞け、と先輩面して言った。


吉田先輩は第一志望だった一流国立大学に無事合格し、ポンタより一足先に下宿あだちを出て行った、先輩は別れ際に、美味しいお好み焼き屋が沢山ある街だから遊びに来いよ連れて行ってやるからな、とアパートの住所と電話番号を書いた紙を渡し、これはもう使わないから、と電気コンロをくれた、

神先輩は地元の国立大学に合格した、あれほど無口だった先輩は合格すると別人の様に明るくなり、吉田先輩の部屋で住人四人でお祝いパーティーをした時は初めて飲んだビールのせいか真っ赤な顔でペラペラ喋り出したのにはたまげた、引っ越しの時に持っている文庫本を全てポンタに置いて行ってくれた、

マッチ先輩は、来年はテレビのある下宿がいい、と他の下宿を見つけて引っ越した、結局四人の住人は全て出ることになり、来年の下宿あだちは一年生が四人入ることになるらしい、


ポンタは今日下宿あだちを出る、

ちょうど一年前と同じようにポンタは玄関前に立ち沢山の思い出の詰まった下宿あだちを見上げていた、

ここで過ごした一年、数え切れない程の出来事が走馬灯のように思い出された、錆びたポストに書いてある下宿あだちの文字は心なしか去年より薄くなった様に見えた、

日奈子と俊介とゴンが自転車で引っ越しの手伝いに来てくれた、ポンタは去年一人でここに来た、でも今は一人では無い、いつの間にか増えた荷物を四台の自転車に分けて積んだ、

お城の内堀の水面が朝のフレッシュな日差しを反射してキラキラと美しい、古い城下町の小さな通りには間口の狭い長屋が隙間無く連なっている、


「ありがとう」

ポンタは下宿あだちを見上げて呟くと自転車のペダルを力強く踏み込んだ。


下宿あだち 完


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