ナスとピーマン

ついこないだまでやれ今日の最高気温は36度だ、なんで夕立が降らないんだと、暑さに辟易としていたというのに、気がつけばちゃんと季節が移って、いつの間にか読書の秋だとかサンマが不漁だとか、言うことがすっかり秋になっている。

今年は春からこっち、コロナウイルスのせいで季節感も何もあったものではないが、今年の夏はずいぶんたくさんのナスとピーマンを食べた。
どこで感染するかわからない東京にいては、買い物に行くのも躊躇するだろうと、既往症持ちの息子を気遣った母が送ってくれたものだ。

母は父の遺した小さな畑を一回り広げ、季節ごとにあれこれと野菜を作っている。
素人の趣味の域を出るものではないが、形はいびつでも、とにかく鮮度が高い。鮮度が良ければ相応に美味しいのが野菜のいいところだ。おかげでナスとピーマンについては夏の間、一度も買わずに済んだ。

問題は母の性格だ。
何を育てるかはもちろん耕す人の自由だから、僕から次はあれを作って欲しいなどとリクエストすることはない。
ただ、収穫量の多いものを好んで作る母を放っておくと、トマトにしてもナスにしても、毎日消費することを目的に食べなければならなくなるような羽目になる。

母から「土曜日につくようにナスとピーマンを送るから」と連絡があり、受け取った荷物を開けたら、本当にナスとピーマンで埋まっていたなんてことが、ごく普通にある。
クロネコヤマトのお兄ちゃんが「箱の大きさのわりに軽いですね」と「12」と書かれた定型の箱を片手で軽々持ち上げたのを見たときの嫌な予感は、1ミリも外れないのだ。

「採れた分、全部送らないで、自分で食べなよ」と母に言ったら、即座に「自分の食べる分をわけて、近所にも配って、でも送るぐらい採れるのよ」と返事が来た。
そりゃ植える本数に問題がある。だが、たくさん採れて、ご近所に配るのも母の楽しみのうちだろうから、本数を考えたら?とは言えない。僕とてお裾分けにあずかっている一人なのだし。

量にいささかの問題があるとはいえ、採りたての旬の野菜である。
いうまでもなく、日々ありがたく食べまくった。
でも、同じメニューにしないよう工夫を重ねるにも限界はあって、特に痛むのが早いナスを消費するのは、どこか戦いに挑むようなところがあった。

僕がナスを食べるようになったのは、実は40歳近くなってからのことだ。
それまではどれだけ手間のかかった美味しい料理になっていても「ナスはちょっと……」と言うほど、苦手な野菜の不動の4番バッターだった。
原因は味が嫌いとか、匂いが苦手という、わがままだけど真っ当な理由ではない。

中学生の頃だっただろうか。父が家庭菜園を借りた。
農家育ちの父としては、趣味として土に触れたかったのだと思う。
父は几帳面というか、細かい人で、どこかでもらってきた古畳を鋤で崩しては腐らせ、腐葉土と混ぜ込み、土を作るところから畑作りを始めた。
土が良ければ野菜が育つのは当然のことで、ナスなどは一夏の間に異様なほどに実った。

採れた野菜は消費しなければならない。
田舎育ちの両親は、野菜を捨てるなどもったいなくてできますか、という人たちなものだから、どうにかして食べようとする。
挙句、食卓にはナスのぬか漬けに、ナスの味噌汁、焼きナスにナスの揚げびたし、極め付きは賽の目に切ったナスを炊き込んだ「ナスごはん」までが並ぶ。
年に一度のナス尽くしなら、「今年のナスは上出来だね」などと感想も口にできただろうが、食卓は日々ナス尽くし、ともすれば朝夕ともにナス尽くしなのである。
かくして子供の頃の僕は、すっかりナスが苦手になった。

今年はずいぶん多くのナスを食べた。
量をこなすのに、いろんな料理にも手を広げ、おかげでバリエーションが増えた(ぬか漬けとナスご飯は最後まで頑なに回避)。
9月の終わり近く、母から届いた荷物の中には「今年のナスはこれでおしまい」と、小さなメモとともに、ナスが3本入っていた。
締めの3本は、網焼きにして鰹節と醤油をさっとかけただけで食べた。

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