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三日坊主の始まり

 何事もまずは始めることが大切、始めなければ続けることもできない。
 というわけで三日坊主になることも恐れず、その日の出来事を手帳と並行してnoteにも書いていくことにした。
 新年の抱負というわけではない。ついダラダラと長くなってしまう文章を短く切る練習も兼ねようと思いついた。
 なにせ三日坊主だから続くかどうかはわからない。それでも始めないよりはいくらかマシだろう。

 指の先を真っ黒にしながら版画を刷っている最中に新しい年が始まった。
 今月の上旬からは誘われたグループ展が始まってしまう。
 「間に合えば」と逃げ道は用意してあるものの、意欲も衝動もどっちつかずで気分が乗らない時間が続く。
 本当に作りたいもの、納得できるものを作るのか、それともスケジュール第一で考えて「とりあえず何か」を作るかの判断は難しい。前者は創作者という名のカゴの中へ、後者はプロフェッショナルと呼ばれるカゴに分類されるんだろう。どちらのカゴに入るにしても底辺かつ隅っこであることも間違いはないのだが。

 元旦の今日はそこら中のスーパーや店舗が軒並み休業で、近所の神社やお寺は初詣客でどこも長い行列ができていた。
 ちょっと出かける先がないからと言って、お寺や神社がスーパーの代用品のように使われたのではアルバイトの巫女さんたちもたまったものではない。だが今日見かけた行列の長さは、家にいても間が持たないお父さんたちが家族を引き連れて初詣のハシゴをしていたのが原因に思えて仕方がないのだった。
 羽織に足袋に雪駄で家族と一緒に初詣に出向くお父さんの姿は、昔は珍しくもなかったものだが、今やジャージとトレーナーの上にダウンのベンチコートなんて格好も珍しくない。それだけカジュアルになったのか、価値が薄れたのかはわからない。

 今年は安易な言葉の選択には気をつけようと思う。
 今の世の中でごく自然に使われている言葉や言い回し、略語、用語の類は、会話の中では便利なものだ。だがそれを書き言葉の一部として使うのはあまりに安直に思えてしまう。言葉によって文章が向いている方向が違ってしまったり、わからなくなったり。
 文章を書く上で、言葉に敏感であることは悪いことのようには思えない。厳格に使うことが目的ではないし、そこに拘泥するつもりはないが、言葉の選び方、使い方については常にセンサーをオンにしておきたいものだ。
 三日くらいで切れてしまいそうではあるけれど。

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