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地下1階は満員だった

ストーリーを「創作」するのが、なんだかマーブリングみたいに水面に浮かんだ模様をすくい取ってるだけのように感じてしまっている。
「まず書いてから言えよ」という話なのは当然と思いつつ、物語を書くことなんてただの手段なんだから、目的や目標のないまま手段ばかり先に進んでも、行き場に迷うだけじゃないかと躊躇するのだ。
根幹に触れたり、自分なりの確信に近づけば、ストーリーなんて植え込みに投げ込まれていたビニール傘の残骸からだって作れる気がするし、実際、ターゲットがはっきりしていれば、そこに向かうための方策など放っておいても浮かんでくるものだろう。
そんな考えがこのところ頭の中でふんぞり返ってるもんで、今日は図書館で書架の小説をひたすら拾い読みしてみた。
確かめるべきは地下1階的小説と地下2階的小説である。

ジャンルや作家にはこだわらず、ランダムに書架から引っこ抜いては、ページを飛ばし飛ばしに読んでいく。
これまで相当な数の本を読んできてはいるが、小説全体を俯瞰から見るように読むなど初めての経験で、最初はかなり手間取った。
どのみちそんな簡単にわかるものでもなかろうと、やる気のない寂れた喫茶店のアルバイトよりも適当に読み流しているうちに、なんとなく伝わってくるものがあった。

言葉で的確に伝えられるほどはっきりはしていないのだが、確かに多くの小説がある種のフォーマットをなぞっているのは間違いがない。
それが良いとか悪いとかではなく、おそらく意識しないでそうしているのだろうという気がする。小説を書く人たちだけに多くを読んできているだろうし、読書経験自体が固定観念になって、知らぬ間に制約になってしまっているというか。
結果として限られた敷地の中で空きスペースを探すのに躍起になっているように見えて、なるほど地下1階というのはこういうことなのかもしれないと思ったのだった。

長い文芸の歴史を経て、今ではもちろん地上階もすでに飽和状態で、だからなのか最近は中二階や2階の地に足の着いていないものが流行り始めているのかと思ったり(邪推にすぎるけれど)。
ともかく本を引っ張り出しては戻し、引っ張り出しては戻しを繰り返した甲斐はあった。
知って無駄になることはなかろう。


(余禄)
書いてる自分で言うのもなんだけど、こんな文章、誰かが読んでもまずわからないだろうなと思う。
こいつ、またわけのわからないこと書いているなと思われてもしょうがないシロモノだし、誰からも「イイね」などつかないままだと返って安心します。

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