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その小説の筋は面白いのか?

 自分が書いている小説の筋に自信が持てなくなることは、誰にでもあると信じている。
 「迷いながら書いている」なんて言うと、なんだかちょっと格好いいけれど、そんなたいそうなものではなくて、ただ自信がないだけのことである。
いや、負けず嫌いとしては謙虚と言っておくべきか。

 ともあれ自分の作るものを信じきれるかどうかは、モノ作る人間としてはとても重要なことだ。それが写真家の仕事であれ、美術家の仕事であれ。
僕の友人たちは本当に素晴らしいものを作る人が多い。
 ここ1年は身動きが取れなくて、展示をすると聞いても行けないことばかりだったが、彼らが良い作品を作って展示に至っていることは間違いがない。なぜならその作品たちはすべて彼ら自身という関門を通って出てきたものばかりだからだ。
 だからと言って友人たちが迷わないわけではない。最初は頭に浮かんだだけの漠然としたアイデアや曖昧なイメージ、突然気づいたちょっとしたきっかけでしかないのだ。
 それを深く深く考え、咀嚼し、最後は作品として自分がOKを出せるところまで持っていく。その途中では失敗も迷いもある。本当にこれで良いのかと疑心暗鬼にもなる。

 表現の方法が違うだけで、小説も同じなのだと思う。
 とっかかりから話を膨らませ、全体をイメージし、何度も書き直しながら完成に近づけて行く。その途中で「本当にこんなストーリーで良いのか?」「これは書く価値があるのか?」と迷う。
 僕は今まさにその渦中にある。

 研究と称して図書館で小説の書架の間を歩き回り、適当に本を引き抜いては中身を雑に読むことを日がな一日やっていた。
 細かいところは全然わからない。ただどんな話で、どう終わるかを把握することだけを目的に読んだ。小説を冒涜するような超ウルトラ級の斜め読みだ。
 それでわかったことがある。
 「世の中の大半の小説は実にたわいない筋で出来上がっている」。そのことに僕は気づいたのだった。

 もちろん例外はある。高尚で、人間の心の深淵を常に見つめざるを得ないような筋のものもある。だが「小説」がすべてそんなものばかりではない。
 『老人と海』が素晴らしいのは、年寄りの漁師が格闘の末に釣り上げたカジキを鮫に食われるだけの話じゃないからだ。それだけで終わってしまったら、3年かけて口説き落とした美人が実は美人局でしたという話と同じになってしまう(いや、それも心理状態を事細かに描ければ、ヘミングウェイと並ぶ文豪になれるかもしれないが)。
 ミステリーなんて、誰かが殺されて、誰かが犯人で、誰かが犯人を暴く、それだけのものでしかない。
 要は、世の中には大した筋ではない小説が溢れかえってるのだから、自分が書いているものがつまらない筋だったとしても、世の中につまらない筋の小説が一つ増えるだけのことなのだ。

 写真の個展では、自分が気に入っている作品はそれほど人気が出ないなんてことが良くある。
 自分でも展示に加えようか外そうか、迷った写真ほど評価が高いこともしばしばで、作り手本人の思いとか予想なんて、世の中はまったく御構い無しという残酷さなのだ。
 どうせ当たらない予想なら、あれこれ考えずに書いたもの勝ちだ。
 そうして迷いに無理やり蓋をして書いたとしても、自信満々の自己評価ユルユル人間が書いたものよりは良くなっているはずだ。
 実に収穫の多い日曜日になった。

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